8月のおたより

2023(令和5)年8月

 【 お寺の行事 】

   8月12日(土) 午前8時 極應寺境内地墓地一斉掃除 

   〈お盆の花〉 

     昔から、お盆の墓参りは、「ボンバナ(盆花)」が供えられてきました。
     「ボンバナ」の正式名は「ミソハギ」です。
     「鼠尾草」と書きます。
     花の形が鼠の尾っぽに似ていることからの当て字でしょうか。
     古い書物には、お盆の精霊棚にミソハギで水をか けることから「水掛草」とも言うと書かれてあります。
     このことから、ミソハギは「精霊花」とも言われ、「禊萩」とも書くそうです。
     今は、あまりお墓に供えてあるのを見ることが少なくなったミソハギですが、古人は思いを込めてお供えしてきました。

【 一石十鳥 】

 71歳になる男性の話です。
 50年以上の会社勤めが終わって、思うところがありました。

    今までは、会社という枠の中での生活だった!
    これからは、社会という枠の中で生活したい!

 友だちに誘われて、シルバー人材センターに登録しました。
 依頼される仕事は、公園の草刈りや花壇の花植えなどです。
 仲間たちと仕事をしていて気づいたことがあります。
 
      シルバー人材センターの仕事は、「一石四鳥」だ!
                     
        1.ベテランの人たちと世間話でストレス発散できる。
        2.適度な仕事で、体調がよい。
        3.草刈りや花植えできれいになり、達成感がある。
        4.小遣い稼ぎにもなる。

 男性は、シルバー人材センターの仕事に満足しています。

 「一石二鳥」ということばがあります。
 鳥が2羽いる所で、1羽の鳥をねらって石を投げたら、2羽とも落ちてきたというイギリスのことわざを漢字4文字で表したことばです。

   一つの行為で、二つの利益を得る。

という意味で使います。
 しかし、世の中には、一つの行為で、二つどころか三つも四つも利益を得る、「一石三鳥」「一石四鳥」の話もあるのです。

 「いろはカルタ」の最初は、
 
     犬も歩けば棒に当たる

です。
 このことばには、2つの意味があります。
 ひとつは、

    何かしようとする者は、災難に遭うことも多いので気を付けたほうがよい。

という意味。もうひとつは、

    出歩けば、思わぬ幸運に出会う。

という意味です。
 シルバー人材センターで働く男性は、災難どころか幸運に出会ったわけです。
 会社を退職して、家にばかりいたのでは出会えない「一石四鳥」の得がたい経験をすることになりました。
 
 「一石四鳥」の話から、思い出すことがあります。

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の念仏には「一石十鳥」の利益があると教えています。
 南無阿弥陀仏の念仏を称えれば、10もの功徳があるのです
 先のシルバー人材センターの男性の利益は、4つとも10の中に含まれています。 
 親鸞聖人は、念仏称えれば「小遣い稼ぎ」になるとはあからさまに言っていませんが、真面目に働けばなにがしかの見返りがあることは間違いありません。

 このことから、真面目にはたらくことは、仏さまの教えに叶った生き方であると分かります。
 このため、親鸞聖人は、何はさておいても、まず、

    念仏称えよ!

と教えるのです。
 念仏称えて、こちらから功徳を掴まえにいくのではありません。
 功徳のほうから来てくれるのです。
 こんな嬉しいことはありません。
 親鸞聖人は、このことを体験的にさとりました。
 だから、自信をもって念仏を勧めてくださるのです。        合掌


2022(令和4)年8月

【 お寺の行事 】

    8月12日(金) 午前8時 極應寺境内地墓地一斉掃除 

   〈お盆の迎え方〉 

     お盆の期間は、8月14日から16日までの3日間です。
     お盆までにお墓の掃除を済ませ、13日の夕方には、仏壇にお花やお供え物をして灯明を点け、ご先祖をお迎えします。
     そして、期間中はお墓参りします。
     16日の夕方には、お内仏にお参りして仏壇の灯明を消します。
     こうして、ご先祖を送ります。

【 亡き人から案じられている 】

 夏は、暑い熱気も鎮まった夜、幽霊たちの出番です。
 幽霊話をひとつ。

 金沢に、「飴買い幽霊」の話が伝えられています。

 ある夜、店じまいした飴屋の雨戸を「トントン!」とたたく音がしました。
 飴屋の主人が出てみると、青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女の人が、

    飴を下さい!

と一文銭を差し出しました。
 主人は、こんな時間に、どんな事情があって飴を買いに来たのか不審に思いながら、女の人が、いかにも悲しそうな小さい声で頼むので、桶の飴を鑿とカナヅチで割って、笹の葉に包んで売ってやりました。

 次の日の晩。
 店じまいした後、前の晩の女の人が来て、

    飴を下さい!

と一文銭を差し出します。
 店の主人は、飴を渡しながら、

    あんたは、ここら辺では見ぬ顔やが、どこに住んでいるんや?

と尋ねると、女の人は答えず、黙って行ってしまいました。
 次の晩も、その次の晩も、女の人は飴を買いに来ました。

 7日目の晩。
 女の人は、

    もうお金がないので、これで飴を売って下さい!

と、女物の羽織を差し出しました。
 店の主人は、気の毒に思ったので、羽織と引き換えに飴を売ってやりました。

 翌日。
 飴屋の店の前を通りかかった呉服屋の旦那さんが、店先に置いてある羽織を見て、店に入って来て、

    この羽織は、先日亡くなったうちの嫁のたみの棺桶に入れたものだが、どこで手に入れたんや?

と尋ねるので、飴屋は、女の人が飴を買いにきたいきさつを話しました。

 これを聞いてびっくりした呉服屋が、嫁を埋葬した墓地へ行ってみると、新しい土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。

    オギャー! オギャー!
 
 慌てて墓を掘り起こしてみると、なんと嫁のたみさんの亡骸が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いているではありませんか。
 たみさんの手の中の赤ん坊は、飴を握って、

オギャー! オギャー!

と泣いています。
 墓に埋めるとき、たみさんに持たせた三途の川の渡し賃六文銭は無くなっています。
 飴を買うのに使ってしまったようです。
 そして、棺桶にいっしょに入れた羽織もありません。
 
   さては、妊ったまま死んだ嫁のたみは、墓の中で子を産み、墓の中で生まれた我が子を育てるため幽霊となって飴を買いに行ったのか!
   たみさん!
   この子は、ワシが必ず立派に育ててやるぞ!

と声をかけると、たみさんの亡骸は頷くように顎をがっくりと落としました。
 墓の中で生まれた子は、後に金石の天台宗道入寺の七代目住職になったと伝えられています。
 
 さて、東本願寺の教化テーマに、

    亡き人を案ずるあなたが亡き人から案じられている。

という標語があります。
 「案ずる」とは、心配する、心に掛けるという意味です。

 私たちは亡き人を案じてお参りしますが、実は、亡き人が私たちを案じているのです。
 亡き人が、私たちのことを心配しているのです。
 そのことに気づいて下さい。

 これが標語の趣旨です。

 「案じ」「案じられる」関係は、あの世とこの世の間だけではありません。
 この世の者同士の間でもあります。

    とんぼ吊り 今日はどこまで 行ったやら   千代女

 とんぼ吊りに行った我が子を案ずる母親の気持ちを詠んだ句です。

 いずれにしても、私たちは「案じ」られているのです。
 八月は、私を「案じ」ている先祖を偲びながらお盆をお迎えください。
                                                 合掌

2021(令和3)年8月

 【 お寺の行事 】

       8月12日(木) 午前8時 極應寺境内地墓地一斉掃除 

   〈お盆の迎え方〉 

     お盆の期間は、8月14日から16日までの3日間です。
     お盆までにお墓の掃除を済ませ、13日の夕方、仏壇にお花やお供え物をして灯明を点けます。
     期間中、お墓参りして、16日の夕方仏壇の灯明を消します。

【 平生業成 】

 夏は、幽霊の季節でもあります。
 幽霊話が夏に語られるのは、お盆と関係があります。
 昔から、お盆には先祖の魂が帰ってくると一般に言われています。
 帰ってくるのは、先祖ばかりではありません。怨みを残して死んだ人の魂も帰って来ます。
 昔の人は、怨みを抱いた人の魂は幽霊になって出ると考えました。

 三大幽霊話があります。

 話の主人公は、それぞれ女性です。
 「四谷怪談」のお岩さん、「番町皿屋敷」のお菊さん、「牡丹灯籠」のお露さん。
 昔の女性は蔑視されましたから、不遇のまま死んでいった女性が多かったからでしょう。

 番町皿屋敷の主人公は、お菊さんです。
 お菊さんは、青山主膳の屋敷で下働きをしていました。
 ある日、主膳が大切にしていた皿10枚の内1枚を割ってしまいました。
 奥方はたいへん怒り、罰としてお菊さんの中指を刀で切り落とし、屋敷に監禁してしまいます。
 隙を見て逃げ出したお菊さんは、屋敷の井戸に身を投げ命を絶ちます。

 お菊さんの死後、夜になると井戸の中から「1枚、2枚、3枚…」と皿を数える声が聞こえてくるようになりました。
 9枚まで数えますが、10枚目がありません。
 お菊さんは、

       あぁ、悲しや!
       足りぬ!
       恨めしやな!

と、1枚目から数え直します。
 これが一晩中繰り返されます。

 番町皿屋敷は、歌舞伎や浄瑠璃で演じられ、講談や落語でも語られてきました。
 落語の皿屋敷は、お菊さんの幽霊が評判になり、毎晩、見物人が出る賑わいになります。
 ある晩、お菊さんは、18枚まで数えました。

    見物人  お菊さん。
          あんた、それ数えすぎですよ!

    お菊さん  明日休むから、明日の分まで数えたのよ!

という「落ち」の語りがあったり、お菊さんの霊を鎮めるために雇われたお坊さんが、井戸の前でしきりに念仏を称えると、

   坊さん  まんまいだ! まんまいだ! なんまいだ!…

    お菊さん  あんたもしつこい人やな!
           さっきから9枚って言ってるでしょ!

という「落ち」の落語もあります。

 番町皿屋敷の原作では、了誉上人というお坊さんが雇われます。
 了誉上人は、お経を読み、念仏を称えますが、お菊さんの霊が鎮まりません。
 困った了誉上人は苦肉の策で、お菊さんが、

    お菊さん  9枚!

と数えたところで、すかさず、

   上人  10枚!

と声をかけると、

   お菊さん  あら、うれしやな!

と一声。
 その後、お菊さんの幽霊は出なくなりました。
 原作者は、

     菊も成仏疑いあらじと見えたりけり。

と結んでいます。

 覚如上人の『執持鈔』には、

    …平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。…

とあります。
 生きているうちに、人生の問題を解決しておくことが大事だという教えです。
 人生、貸し借りなし。
 人生、+−=0にしておく。
 これで、後腐れなく終わっていけます。
 このことを、真宗では「平生業成」と教えています。       合掌!

2020(令和2)年8月

【 お寺の行事 】

        8月12日(水) 極應寺境内地内墓地一斉清掃日  午前8時

【 今ぁ? 】
                  
 昔の川柳に、

   本降りに なって出て行く 雨宿り

があります。
 雨が降ってきたので雨宿りしました。
 もうすぐ晴れるか、今晴れるかと雨上がりを待っていましたが、雨はだんだん強くなるばかり。
 待ちきれなくなって、本降りの中を出て行ったという句です。

 7月23日から「Go to トラベル」が始まりました。
しかし、今、コロナの感染者が増え続けています。

   こんな時期に旅行するか?

と誰もが思うと思いきや、旅行に出かける人が結構いるようです。
 そんな人たちを見て、ふっと、昔の川柳が思い浮かびました。
 土砂降りの中を出て行けば、ずぶ濡れになってしまいます。
 コロナ菌がウヨウヨしている中に出ていけば、感染リスクが高くなります。
 罹ってからでは遅いのです。

 「遅い」といえば、私たちは、災害の危険性がある時など、「早めに避難!早めに避難!」と言われているのに、とかく「遅め」になりがちです。

 病気も同じです。
 
   これくらいなら、まだ大丈夫!

と思っているうちに、我慢しきれなくなって病院を受診すると、医師から、

   あんた、早よ来んか!
   だいぶひどくなっとるぞ!

とたしなめられ、軽いうちなら楽に直せた病気を、遅くなったばっかりに、辛い治療で苦しむことになるためしはままあることです。
 人は、とかく目先のことにとらわれて、先にしなければならない大事なことを後回しにする傾向があります。

 『徒然草』にある話です。

 ある人が、我が子に、

   お前は、説教者になって世渡りしたがよかろう!

と教えたところ、子もその気になって説教者になることにしました。
 ところが、何を思ったのか、まず馬の乗り方を習いました。
 説教に招かれるとき、輿や牛車でなく馬で迎えに来る人もいます。
 馬の乗り方が下手くそで、馬から落ちたら格好悪いと考えたからです。
 
 乗馬が上達したので、次に歌を歌うことを習いました。
 仏事が終わったあと、お酒が出ることがあります。
 そんなとき、歌のひとつも歌えなかったら、座が白けると考えたからです。

 歌も上達したので、

   さて、説教を習おう!

と思った頃には、馬や歌の稽古に時間がかかりすぎて歳を取ってしまい、説教を習う時間がなくってしまいました。

 この話を書いた吉田兼好は、

   されば…第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事をはげむべし…

と、何が大事か見極めて、そのことひとつに精進しなさいと戒めています。

 そして、古川柳には、

   雨宿り 出ようとしては よしにする

という句もあります。
 出ようかと思ったけれど、雨がひどいから止めたという句です。

   「Go to トラベル」も、今、行かねばならぬ大事なことかよく考えよ!
  
と戒めているようにも読めます。

【 感謝! 】

 「婆ちゃんコント」の御供田幸子さんが相方の浪花千秋さんと、葬儀社のコマーシャルに出ています。
 場所は葬儀会場の中で、どうやら2人は亡くなった人を演じているようです。

   御供田  私の人生、喜びも悲しみも色々あったけど、すべての出会いに感謝だ!

   浪 花  いいこと言うねぇ!

と相づちを打ちます。

 また、仏壇店のお盆提灯の新聞広告にも「感謝」と書かれてあります。

 ご先祖のご恩とその恵みに感謝するお盆の季節となりました。  合掌!

令和元年8月

 【 お寺の行事 】

       8月12日(月) 極應寺墓地一斉掃除日
                 午前8時ヨリ           

       8月28日(水) 親鸞聖人ご命日                 

              お誘い合わせてお参り下さい。

【 地蔵菩薩 】

 地蔵菩薩の縁日は、毎月24日と決まっています。

 地域によっては、昔から、毎月の24日、お寺や神社にお参りして、地蔵菩薩の加護を祈る地蔵信仰が行われてきました。
 7月、8月の24日はお盆に近いことから、とくに「地蔵盆」と呼ばれ、当日は露店が出るなど盛大に行われている地方もあります。
 地蔵菩薩は、私たちの身近なところにおられる仏さまです。         
 通りに面して建てられた祠(ほこら)の中や、水が湧き出している泉の側にもおられます。

 かつて、春日八郎は、

    ♪…一本杉の石の地蔵さんのよ 村はずれ〜♪

と歌いました。
 地蔵さんは、村はずれの一本杉の側にもおられます。

 地蔵菩薩は、インドのことばで「クシティガルバ」と言います。
 「クシティ」とは「大地」、「ガルバ」は「胎内」のことです。
 このことから「クシティガルバ」は、漢字で「地蔵」と訳されました。
 「地蔵」は、命を生みだす大地という蔵という意味です。
 この大地のはたらきを形にしたのが地蔵菩薩の姿です。
 地蔵菩薩は、大地のはたらきを象徴する姿です。

 『法華経』に、大地から数え切れない菩薩が涌き出してきたという話があります。
 お釈迦さまは、

    この菩薩たちは、大地の中で、私の説法を聞いて修行し、さとりを開いた者たちばかりだ!

と弟子たちに説明します。

 「大地の中で、菩薩たちが修行している!」

と言われても、
 大地の中の菩薩の姿は、見えません。
 しかし、お釈迦さまには見えていました。 
 菩薩たちの修行の功徳は、やがて地上にきれいな花を咲かせ、野菜や果物など豊かな実りをもたらします。
 また、きれいな清水が湧き出すのも、すべて大地の菩薩たちの修行のたまものです。
 湧き出した清水は、人々の渇いた喉をうるおし、田畑を潤します。
 「村はずれの一本杉」は、夏の暑い日差しを遮り日陰を作って村人たちを憩わせ、大風から農作物を守ってくれます。

 昔から、「ミミズに小便かけるな!」と言われてきました。
 ミミズは「大地の鍬」と言われるように、土壌を改良してくれます。
 土の中で、「セッセ!セッセ!」とはたらいているミミズも菩薩さまなのです。


【 御崇敬余聞 】

 東本願寺は、これまで4回焼けました。
 焼失のたびに、真宗門徒は本願寺を建て直してきました。
 現在の東本願寺の伽藍は、4回目の焼失から再建された堂宇です。

 再建工事で、特筆されるのは「毛綱」のことです。
 男たちは、本願寺再建のため上京しました。
 その留守を守る女たちは、

     私たちも、再建のお手伝いをしたい!

と、自らの髪の毛を切って束ね、「毛綱」を編んで本願寺に寄進しました。
 毛綱が工事に加わったことで、従来のわらや麻などで作った縄では切れてしまう重い材木を、引っ張ったり、高所に引き上げることが可能になり、工事は格段に進みました。
 毛綱は、全国で53筋作られ、新潟県から15筋の寄進がありました。

 毛綱の寄進が始まった当時のことを、新潟長岡藩の家老の娘だった杉本鉞子さんが『武士の娘』の中に書いています。

 ある日、鉞子さんが女中を連れて通りに出ると、手ぬぐいを被った女の人がたくさん歩いています。
 不審に思って尋ねると、

    女中  あの人たちは、みな、髪の毛を切っているのです!

    鉞子  じゃ、みんな「やもめ」なの?

    女中 いえ、切った髪の毛は、本願寺さまの御堂の棟木にする材木を引く太い毛綱に編むのです!

 鉞子さんの家には、何人もの女中さんがいました。
 髪の毛を切りすぎて、髷を結えず、嫁入りを3年延ばした娘さんもいたそうです。

 また、明治の終わりごろ日本を訪れた英国のポンティングは、東本願寺に展示してある毛綱を見て、

   明治の婦人たちが、生涯変わらず持ち続けた信仰のために捧げた犠牲を象徴する、次世代への悲哀に満ちた言づけである。

と著しました。

 「次世代への…言づけ」は、次世代に言づてなければなりません。

 御崇敬を勤めるのは、このためです。     合掌


平成30年8月

 【 お寺の行事 】

       8月12日(日) 極應寺境内地内墓一斉掃除 午前8時

       8月28日(火) お 講  午前8時 お勤め

               お誘い合わせてお参り下さい。

【 倒 懸 】

 「お盆」という行事は、お釈迦さまの弟子・目連が、餓鬼道に堕ちて苦しめられている母を助けたという仏説に由来します。
 また、「盆」は、インドのことば「ウランバナ」が語源だと言われています。
 「ウランバナ」に漢字を当てて「盂蘭盆」と書き、「盂蘭盆」を縮めて「お盆」と言うようになりました。
 そして、「ウランバナ」は「倒懸(とうけん)」と訳されました。
 「倒懸」とは、「逆さづり」、「逆しま」ということです。
 逆立ちしてものを見れば、景色が反対に見えます。
 それを、「正しい!」と思い違いしてしまうことがあります。

 たとえば、電車に乗っていて、駅に止まったとします。
 反対側のホームにも電車が止まっています。
 自分が乗っている電車が動き出しました。
 しばらくして、自分の電車が止まっていることに気づきました。
 反対側の電車が動いて行ってしまったのです。
 それに気づかず、自分の電車が動いたと思い違いしたのです。

 私たちは、自分はたいしたこともしていないのに、「みんなは何もしていない。自分ばっかり!」と思うことがないでしょうか。
 また、「自分こそ正しい。社会が間違っている!」と思うこともないでしょうか。

 ある中学3年生が万引きして補導されました。
 警察署に呼び出された母親は、謝るどころか、警察官に食ってかかりました。

    おまわりさん!
    この子は、来年、高校受験なんです。
    今が一番大事なときなのに、万引きぐらいで、こんなに騒ぎ立てて困るじゃないですか。
    この騒ぎのために、この子が動揺して、勉強に実が入らず、高校受験に失敗したらどうしてくれるんですか。
    責任とってくれるんですか?

 次に、高校生が万引きで補導されました。
 警察署に呼び出された母親は、

    おまわりさん!
    デパートの品物の値段には、万引きされたときの損害が上乗せして付けられているんです。 
    だから、万引きしても、デパートの損にはなりません。
    つまり、私の子は、誰にも迷惑をかけていないんです。
    そんな子を捕まえるとは、人権蹂躙だ!

と、警察官を叱りつけました。

 とんでもない母親です。
 自分の思い違いを正しいと主張する、こんな迷惑な話はありません。
 母親は、逆立ちしてものを見ているため、世間のことはみな間違って見えるのです。

 昔から、「お盆」には、ご先祖さまが帰ってくると言われています。
 帰って来たご先祖に楽しんでもらうため、 ご馳走を作ってお供えし、盆踊りや花火などをします。
 お盆は、ご先祖を慰めるための行事です。

 「倒懸」ばかりの自分を、ご先祖にわびる心が、お盆を迎える心です。

【 瞑 想 】
                   
 タイの洞窟奥深くで遭難したサッカーチームの少年たちが奇跡的に助かったニュースに、世界が注目しました。
 遭難から救出まで、2週間あまりかかったことで、救出のニュースが連日報道されました。
 その間、ニュースを見る人たちは、ハラハラしながら、事態を見守りました。

 救出後の少年たちは、記者会見で、

     おなかがすいて泣いた!
 
とか、

     できるだけ食べ物のことを考えないようにした! 
                         
などと語りました。
 チームと一緒にいたコーチは、洞窟の暗闇の中で動揺する少年たちに、

     「瞑想」しなさい!

と諭しました。
 コーチは、僧侶をしていたとき、瞑想を学んだことがありました。
 「瞑想」とは、外からの刺激にまどわされることなく、心を静めることです。
 「暗い!」とか「お腹がすいた!」とか「どうなるのか!」という心の動揺や不安を忘れて、心を空っぽの状態にすることです。
 座禅に似ています。
 心が空っぽになると、心が落ち着きます。
 心が落ち着けば、冷静に行動できます。
 こうして、少年たちは、暗闇の中で、水だけで、ひたすら救出を待ちました。

 仏教では、私たちも暗闇の中にいると説かれます。
 外は明るくても、心が暗闇なのです。
 この暗闇を明るくしてくれるのが、仏さまの教えです。
 お経を誦(よ)んだり、念仏を称えることは、行き着くところは、安らかな心なのです。     合掌

平成29年8月

【 お寺の行事 】

       8月12日(土) 極應寺境内地内墓一斉掃除 午前8時

       8月19日(土) お 講  午前8時 お勤め
                         9時 おとき
                 当 番  谷口組

               お誘い合わせてお参り下さい。

【 さとうきび畑 】 

  ♪ざわわ ざわわ ざわわ
   広いさとうきび畑は
   ざわわ…
    …
   むかし海の向こうから
   いくさがやってきた
    … ♪

 森山良子さんの歌で知られる「さとうきび畑」の歌詞です。
 沖縄戦で、父を失った少女の悲しみが、11題までつづられています。

 沖縄戦のとき、太田昌秀さん(元沖縄県知事)は沖縄師範学校の学生でした。
 戦況が悪化したことで、学生も軍事動員されました。
 太田昌秀さんは、沖縄守備軍司令部の情報部に配属されました。
 仕事は、大本営発表の情報を各地へ知らせるとともに、各地の戦況を沖縄守備軍司令部に報告することでした。
 太田さんは、伝令として、敵弾飛び交う中を走り回りました。
 多くの学友たちが命を落とす中で、太田さんは生き残りました。
 戦後、太田昌秀さんは、

    戦況が最終局面を迎えたとき、野田貞雄校長先生は、生き残った職員や生徒たちを集めて、これまでの労をねぎらい、

       …こうなったからは、けっして無駄死にをしてはならない。
       勇気を振るい起こして生を全うせよ!

   と諭された後、腰に2個の手榴弾を付け、配属将校と4人の学生に付き添わ れて、司令部の壕を出られた。
    2度と、あの温顔を見せてくださらなかった。
   戦後、東京の大学で学ぶことになり上京したとき、まっさきに野田先生のご遺族をお訪ねした。   
   先生の奥さんは、

       …主人が至らぬゆえに、多くの若い生徒さんたちを道連れにして申しわけありません!

   と手をついて涙された。
    事実は、そうではなかった。
    野田先生最後の「生を全うせよ!」のことばで、何十人かの若者たちが、無茶なことをせず、生を全うすることができたのであった。
    その後、沖縄守備軍司令部の、ある高官の夫人にお会いしたとき、  
        
       …主人が死んだお陰で、あなたたちは無事に生き残れてよかったですね! 
   と言われた。
    そうではなかった。
    沖縄守備軍司令部が撤退するとき、撤退を安全にするため、戦争したこともない師範学校の学生まで出陣させられ、
   多くが命を落としたのだった。 
    人によって、またその立場によって、物の見方や受け取り方が、かくも違うものかと、わたしはつくづく考えさせられた。

と語っています。

 太田昌秀さんは、今年の6月亡くなりました。
 そして、今年も8月がめぐってきました。
 
【 過労死ライン 】

 「地獄の釜の蓋もあく」ということわざがあります。
 お盆の間、地獄の鬼たちは、罪人を苦しめるのを休むという言い伝えから生まれたことばです。
 お盆は、地獄の鬼たちの夏休みです。
 しかし、地獄には、そうもいかない事情もあるようです。

 昔、覚源上人というお坊さんがいました。

 ある日、「気分がすぐれない!」と言って横になりました。
 横になったまま、息をしなくなりました。
 不思議なことに、脈は、確かに止まっているのに、体は温かいままでした。
 17日過ぎて、上人は、ぱっちり目を覚ましました。
 集まっていた弟子たちは、驚くやら、喜ぶやら…。

 目を開けた上人は、

     これは、皆、よいところに集まっている!
     わしは、地獄へ連れて行かれていたのじゃ。
     地獄は、恐ろしい所だ。
     閻魔大王は、次々と罪人を裁いて地獄に落とし  ていく。
     ある者は体を切り刻まれ、ある者は釜ゆでにされ、針の山に追い立てられ、中には、舌を抜かれる罪人もいる。
     わしの番が来た。
     どんな罰を受けるのかビクビクしていたところ、閻魔大王曰く、

     こりゃ覚源!
     お前を、地獄に連れてきたのはほかでもない。
     近頃、地獄に来る人間が多すぎる!
     鬼たちは、盆も正月も休みなく働きづめに働いて、疲れ切っておる。
     鬼たちの労働時間は、はるかに「過労死ライン」を超えている。
     お前は、娑婆へ帰って、人々に地獄の恐ろしさを伝え、地獄に堕ちる悪事をせぬよう説き聞かせよ!

     と言われて帰って来たのじゃ!
     
と覚源上人は語りました。

 私たちは、ひとつでも悪事を減らせば、地獄の鬼の負担を軽くする思いやりとなります。
 しかし、実際はその反対で、これからさらに地獄は忙しくなりそうです。
 舌を抜かれる罪人が、次々と地獄に堕ちていくのではないでしょうか。  合掌


平成28年8月

 【 お寺の行事 】

       8月12日(金)極應寺境内地内墓掃除 午前8時

       8月20日(土)お講  08:00 お勤め
                    09:00 おとき
                    当番 福島(そうざしんたく)組

                     皆さん、お揃いでお参り下さい。

【 お盆のこころ 】    

 お盆の由来は、『仏説盂蘭盆経』というお経に説かれています。
 『盂蘭盆経』の「盂蘭盆」の「盆」から、「お盆」と言うようになりました。

 お経によると、お釈迦さまの弟子で、神通第一と言われた目蓮という超能力を持った弟子がいました。
 目蓮は、自分の行きたいところへは、何処へでも、瞬時に、自由に行ける能力 を持っていました。
                     
 ある日のこと、亡き母はどうしているか気になって、母が行った所へ行ってみることにしました。
 まず、極楽浄土へ行ってみましたが、母は浄土にはいませんでした。

    さては、我が母は、浄土に生まれなかったのか!

 慌てた目蓮は、方々捜しました。
 その結果、母は餓鬼道に堕ちていることが分かりました。
 餓鬼道に堕ちた人は、物を食べさせてもらえません。
 母は、やせ衰えて、骨と皮だけになって、枯れ木みたいになっています。

    食べたい、食べたい!

と言って泣いています。
 驚いた目蓮は、母に食べさせようと、皿に食べ物を盛って、母に差し出しました。
 母は、皿を左手で受け取って、右手で食べようとしますが、口に入る直前、ボッと燃え上がって、たちまちのうちに、墨と灰になってしまいます。
 母は、食べられません。
 何度やっても同じです。

 困った目蓮は、お釈迦さまのところへ行って、この事情を話して、助けを求めました。
 お釈迦さまは、

    よし、分かった。私の言う通りにしなさい。
    今、お坊さんたちは、修行の最中である。修行は、8月15日で終わる。
    その日に、お坊さんたちに、ご馳走を振る舞いなさい。
    そうすれば、その功徳によって、お前の母は、餓鬼道から救われるだろう。

 目蓮は、お釈迦さまに教えられた通り、8月15日、修行を終えて出て来たお坊さんたちにご馳走を振る舞いました。 

 これによって、目蓮の母親は、たちまちのうちに餓鬼道から救われて、極楽に生まれ替わりました。

 『仏説盂蘭盆経』には、8月15日に、先祖供養すれば、今、親が生きているならば、病なく、心配ごともなく、安楽に100年生きるであろう。
 また、7代前までの先祖までが、餓鬼道に堕ちることなく、極楽に生まれ替わり、その福徳きわまりないであろうとも説かれています。

 この仏説から、「お盆」の行事が始まりました。

 では、なぜ目蓮の母は餓鬼道に堕ちたのでしょうか?

   この世にいたとき、欲張ったからです。

 なぜ、目蓮の母は欲張ったのでしようか?

   我が子を育てるためです。

 母というものは、我が子を育てるため、欲出して働き、食べさせ・着させ、子が熱だせば、夜も碌々寝ずに看病。
 我が子が、外で遊んでいれば、「怪我せんやろか?」、学校へ行けば、「いじめられておらんやろか?」、一時も、我が子のことが頭から離れません。
 また、「我が子」を守るためには、世間の義理を欠くことも厭いません。
 世間の義理を欠くことまでして、我が子大事に育てます。
 その結果、餓鬼道に堕ちることになるのです。
 
 このことは、目蓮の母だけの話でなく、母親ならば、どの母親にも当てはまります。
 我が子のためなら、地獄に堕ちることもはばかることないのが母の心です。
 母親に限らず、父親も、この私を育て上げるために、餓鬼道に堕ちるようなことまでして育ててくれました。
 お盆には、その親・先祖を偲び、手を合わせます。
 手を合わせることで、

    おお、お前も、手を合わせられる人間になってくれたか!

と喜んでくれます。

 これが、お盆を迎える心です。

【 お盆の行事 】

 お盆には、先祖の魂が帰ってくるという民間信仰があり、さまざまな行事が行われます。
 先祖の魂を迎える「迎え火」。
 「迎え火」には、玄関でオガラを燃やしたり、提灯を吊って、帰ってくる魂の目印とします。
 また、茄子や胡瓜に足を付けて馬の形にして飾ったりする地方もあります。
 また、迎えた魂を送る「送り火」。
 京都で、8月16日の夜に行われる「大文字」の送り火は有名です。
 そして、盆踊り。
 盆踊りは、帰ってきた先祖の魂を慰め、楽しんでもらうために踊ります。
 山形の花笠踊りや高知の阿波踊りなど、夏の踊りは、すべて盆踊りです。
 仏壇を飾り、お墓参り、お寺参りなどはもちろん、色々な行事を通して、お盆の心が伝えられてきました。     合掌



平成27年8月

 【 お寺の行事 】

     8月 9日(日) お 講  08:00 お勤め
                     09:00 おとき
                     当番 土肥組

            みなさんお誘い合わせてお参りください。

     8月12日(水) 極應寺境内地内墓掃除 08:00から
  
【 時代になる 】

 漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるさん(93歳)が、出征前に書いた手記が見つかったということがニュースになりました。
 水木しげるさんは、昭和18年に出征します。
 手記は、その前年に書かれました。
 手記には、赤紙一枚で出征させられる若者の苦悩と葛藤が書かれてありました。

 …将来は語れない時代だ。毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ。画家だらうと哲学者だらうと文学者だらうと労働者だらうと、土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。…人を一塊の土くれにする時代だ。…こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。だから、一切を捨てて時代になつてしまふ事だ。…一切の自分ていふものを捨てるのだ。…

と書き、続けて、

 …吾は死に面するとも、理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも  吾であらん事を欲する。…

とも書いています。
 揺れ動く青年の苦悶が読み取れます。
                 
 この手記を読んで思ったことは、「人間は、追い詰められたら、崇高な精神に達することがある」ということでした。

 越後の良寛和尚は、今から260年前の人ですが、越後の国を地震が襲いました。
 良寛さんの所は、大した被害はありませんでしたが、友人が大きな被害を受けました。
 良寛さんは、さっそく見舞いの手紙を書きました。
 手紙には、災難に遭ったときの心構えが書いてありました。

 …災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。  これはこれ災難を逃るる妙法にて候。…

 一見、つれない無慈悲なことばに見えますが、宗教家が災難を説けば、こういうことになります。
 宗教家の限り無い慈悲の心が籠もったことばです。

 災難から逃れるには、自分が災難になる。
 自分が、災難とひとつになる。
 これは、水木しげるさんが「一切を捨てて時代になつてしまふ事だ」と言った境地と同じです。
 また水木さんは、

 …時代に順ずるものが幸福だ。…

とも書いています。
 出征という死が目の前にある追い詰められた状況の中で、水木しげるさんは、良寛和尚と同じ境地に達しました。

 だからといって、戦争を肯定するものではありません。
 水木さんは、戦場の中で理想を持ち続けました。
 漫画家になりたいという理想を忘れませんでした。
 自分が時代になり、時代とひとつになっても、理想を忘れない。
 このことが、ラバウルの戦場で、壮絶な戦いの中から、多くの戦友が戦死する中で、左腕を失いながらも生還を果たす力となったのかも知れません。

 親鸞聖人は、念仏の教えが、政治権力によって弾圧され続ける中で、念仏の教えを捨てることはありませんでした。
 そのわけは、

 竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。…
                                           『教行信証』化身土の巻

 念仏の教えこそ、この時代には必要な教えであるという信念と、念仏の教えを広めねば止まないという理想があったからです。

 これら、先人たちが残してくれた言説・言動は、私たちが、今の時代を生きる指針となってくれます。
 現代という時代は、さまざまな矛盾や問題を抱えています。
 時代や状況に順じつつ生きる中で、あるべき姿を見据えて、辛抱強く、遠くを見つめて生きる。
 この覚悟が、我が人生を意味あるものにしてくれることと思います。

【 キラキラネーム 】
                 
 変わった名前のことを、キラキラネームと言います。
 中国では、今、キラキラネームが流行っています。
 中国は、古来、名前は2文字か3文字が一般的でした。
 ところが、「王子殿下」とか、「黄金海岸」など、名前だけで4文字の子が増えています。
 苗字が「李」ならば、「李王子殿下」などなります。

 キラキラネームには、賛否両論あるようですが、「南無阿弥陀仏」も、実は名前です。
 仏さまが、私たち衆生に、我が名を呼んで欲しいと呼びかけてくださってある名前が、「南無阿弥陀仏」です。

 名を呼ぶことは、返事をしてほしいからです。 
 昔の人には、仏さまの名を呼びながら生きる姿が多かったように記憶しています。
 仏さまの名を呼び、仏さまの返事を、心の耳で聞く。
 届いた仏さまの返事が、諸行無常の人生を生きる力になりました。   合掌


平成26年8月

【 お寺の行事 】

      8月10日(日) お講  08:00 お勤め
                     09:00  おとき
                     当番 福島組

          ご家族みなさん連れ立ってお参りください。


      8月12日(火) 極應寺境内地内墓地一斉清掃日 08:00〜

【 お盆 】

 昔から、お盆には先祖の魂が帰ってくると言われています。
 そのため、8月13日の夕方、家の前で「おがら」を燃やし、帰ってくる魂の目印にする風習が残ってる地方もあります。

 そもそも、魂が存在するのかしないのか、目に見えないので何とも言えません。
 浄土真宗には「魂」という言い方はありません。
 お盆は、先祖を「偲ぶ」行事と考えたほうが、浄土真宗の宗旨にかなって いるように思います。

 「偲ぶ」とは、過ぎ去った人のことを思うことです。
 過ぎ去った人の在りし日の姿を心に思い浮かべることです。
 その人は、どんなことを考えて、どんな生き方をしたのかを思ってみることが「偲ぶ」ことです。
 そういう意味では、「お盆には、先祖が私の心に帰ってくる!」という言い方はできるかも知れません。

 お釈迦さまが亡くなるとき、弟子の阿難が尋ねました。

   阿難  お釈迦さまが亡くなれば、私たちは教えを受ける人を失います。
        どうしたらいいでしょうか?

   釈迦  阿難よ。心配するな。お前たちは4つの場所を訪ねればいい。
          1つは、私が生まれた場所。
          2つには、私がさとりを開いた場所。
          3つには、私が最初に説法した場所。
          4つには、私が入滅した場所だ。
       それらを訪れて、それぞれの場所にある碑や塔を拝めば、私の教えに会える!

 ゆかりの地を訪ねることは、大事なことです。
 先祖が生まれ育った場所、生きたゆかりの場所を訪ねれば、その場所に、先祖の心が残っているということです。

 また、わざわざそれぞれの場所に行かなくても、先祖を偲んで仏壇にお参りすれば、先祖は、お釈迦さまの弟子の名前となって、仏壇の中に居ってくださいます。
 また、お墓にお参りすれば、墓石には「南無阿弥陀仏」と刻んであります。
 先祖は、「南無阿弥陀仏」という仏さまになって、お墓に居ってくださいます。

 先祖を偲ぶ、ゆかりの地を訪ねる、仏壇にお参りする、お墓にお参りすることは、結局は、仏さまの教えに出会うことです。
 
 私たちは、どこから来たのか知らないまま、この世に生まれました。
 また、どこへ行くのか分からないまま生きて行きます。
 私たちには、生まれる前のことも知らない、死んで行く先のことも分からない、後先の分からない不安があります。
 私が生まれる前のことを知りたい、死んでいく先のことも知りたい、これが人間の自然な感情です。
 この自然な感情から、先祖を偲び、仏さまにお参りする、これも自然な行動です。

 「忙しい!」のも結構なことです。
 「心」を「亡ぼす」と書いて、「忙しい」と読みます。
 「忙しい!」ばかりでは、心が死んでしまいます。
 せめて、1年に1回ぐらいは、心静かに手を合わせて、我がご先祖を偲ぶ時間を持っていただきたいものです。
 先祖を偲び、仏さまの心に出会う、そのことで自分の心がよみがえります。
 よみがえった心が、「忙しい」毎日を頑張る力になるのです。

【 浄土のみやげ 

 あるお寺で出会った、94歳の男性の話です。

 ”おら、この間まで検査入院しとった。
 心臓カテーテルしとった。
 今日は、久しぶりの寺参りや。
 退院してから、寺まで行けるか心配やったけ ど、老人車押して、やっと来れた。
 今度また検査入院することになっとるげけど、 おらは、こんな歳なげさかい、もうどうでもい いと思うとるげけど、病院の先生が検査すると 言うから、行くつもりや。
 病気は、病院の先生にお任せや。
 人間ちゅうもんは、94歳になっても、もろうてきたもんを使い果たさんと死ねんもんなげなと、つくづく思う。
 この間も、66歳で若い皇族が1人亡くなった−桂宮宜仁(かつらのみや・よしひと) さま−けど、あんな立派な人らでも、若いときに死なんならん。
 最後は、誰でも死なんならん。 
 オレぐらいの歳になれば、頼れるものがないがになる。
 健康も頼りにならんがになったし、お金も持って行けんから頼りにならん。
 家の者も一緒に行ってくれるわけでもないから頼りにならん。
 何ひとつ持って行けんげから。
 オレは、毎日、夕方にお勤めしとる。
 朝、起きるが遅いさかい、このお寺のご院主さんに習ったお経を読んどる。
 最後に「お文さま」読むげけど、読むのは、「末代無知…」だけ。
 あとのは、何書いてあるか、さっぱり分からん。
 「末代無知…」の「お文」には、「…かならず弥陀如来はすくいましますべし…」 と書いてある。
 それだけ知らせてもらえば十分や。
 阿弥陀さまは、「かならず助ける」と約束してくださっとる、そのことばをいた だくだけで十分や。
 病気は病院の先生任せ、極楽往生は、阿弥陀さまのお計らいや!
 ああ、今日は、久しぶりに寺参りできて、いい日やった!”
                                                                           合掌
 

平成25年8月

【 お寺の行事 】

        8月12日(月) 墓掃除 08:00

                  極應寺境内地内墓地の一斉掃除を行います。

        8月24日(土) お講   8時 お勤め
                       9時 おとき
                       当番 道辻組

                 ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

【 ナイチンゲール記章 】

 石巻赤十字病院看護部長の金愛子さんが、ナイチンゲール記章を受賞しました。
 この記章は、戦争や災害のとき、犠牲者や被災した人たちを助けるために献身的な活動をした看護師に贈られる賞です。
 石巻赤十字病院は、宮城県石巻市にあります。
 東日本大震災が起こったとき、病院にはたくさんのけが人が運ばれ、家を失った人たちまでおおぜい避難してきました。
 病院の能力以上の人が運ばれ、集まったため、院内は混乱を極めました。
 そのうえ、看護師たちの中には、仕事に専念できる状況にない人もたくさんいました。
 家族が被災し、家が流され、帰る場所もない看護師たちがたくさんいたからです。
 彼女たちは、心の整理をつけられないまま病院に止まり、看護に専念しました。
 その看護師たちを指揮したのが金愛子さんでした。
 金さん自身も、夫が行方不明になり、3週間後、遺体で見つかりました。
 しかし、金さんには、悲しみに浸っている余裕はありませんでした。
 金さんの指示を待つ看護師たち、金さんの看護を待っているたくさんの患者がいたからです。
 金さんは、自分を無にして看護の仕事に献身しました。
 それは、宮沢賢治が詩で歌った姿そのままでした。

        雨にも負けず
        風にも負けず

          ………

        あらゆることを
        自分を勘定に入れずに

          ………

        日照りの時は涙を流し
        寒さの夏はおろおろ歩き

          ………
        褒められもせず
        苦にもされず
        そういうものに
        わたしはなりたい

 宮沢賢治は自分を無にして、人のためにはたらきたいと歌いました。

 宮沢賢治が理想とした人物は、お経の中に説かれる菩薩です。
 『仏説無量寿経』には、法蔵という菩薩のことが説かれています。
 法蔵菩薩は、すべての人を苦しみから救うという願いを立て、最後の一人を救い終わるまで仏にならないというとてつもない誓いを立てました。
 次々と新しい命が生まれて来るわけですから、法蔵菩薩の仕事は、いつまで経っても終わりません。
 そうなることは、法蔵に分かっています。
 分かっていながら、終わりのない誓いを立てたのでした。
 そして、法蔵菩薩は、今なお、終わりのない仕事をはたらき続けています。

 金愛子さんは、

    ”…患者さんを大切にする。それしかできないから、生まれ変わっても看護師かな!…”

と言います。

 「生まれ変わっても、同じ仕事をしたい!」

 これが法蔵菩薩のこころです。
 この世だけで終わらず、次の命でも同じ仕事をしたいと願ってはたらく人は法蔵菩薩です。
 金愛子さんの姿は、法蔵菩薩がお経の中から金愛子さんの形になって現れてくださった姿です。
 そして、次の命でも同じ仕事をしたいと思って働いている人は、みなお経の中から現れた法蔵菩薩です。

 法蔵菩薩の仕事をする人が、世の中を確かなものとしてくれるのです。

【 無明 】

 北吉田の谷村林造さんが91歳で亡くなりました。
 生前の谷村さんは、手次寺のお世話をよくされ、さらに羽咋郡市・七尾・鹿島地区のお寺で勤まる大きな仏事では、地区の門徒代表として仏事の執行に尽力されました。
 谷村さんの通夜で、手次寺の住職さんが、
 「…谷村さんは、戦争から帰って来て、若いにもかかわらず、寺参りするようになった。戦争で何があったのか、一言もしゃべらなかった。…」
と法話されました。
 戦争を経験した人が、また一人亡くなりました。
 先の戦争がなぜ起こったのか、いろいろ語られています。
 しかし、万人を納得させる答えを述べられる人は、誰もいません。
 戦争の原因が誰にも分からないからです。
 そのため、戦後68年経った今も、戦争が語られ続けています。
 「戦争を忘れるな!」と言われ続けるのも、戦争の原因が今もって分からないからです。
 中国や韓国が日本に対して厳しいのも、中国の人も韓国の人も、なぜあの戦争に巻き込まれねばならなかったのか分からないからです。
 人間の心の中には、真っ暗な闇があります。
 その心の闇が、ときとして、誰にもその原因を答えられない大事を起こしてしまいます。
 その心の闇のことを、仏教では「無明」と言います。         合掌


平成24年8月

【 お寺の行事 】

        8月11日(土) お講 8時 おつとめ
                      9時 おとき
                      当番 谷口組

           お誘い合わせてお参りください。


        8月12日(日) 墓掃除 08:00

             極應寺境内地内墓地の一斉清掃を行います。

【 お盆 】

 『仏説盂蘭盆経』というお経があります。
 お経には、お釈迦さまの弟子で、「神通第一」といわれた目蓮のことが説かれています。
 目蓮は「神通第一」ですから、不思議な力を持っていました。
 ある日、亡くなった母がどこに生まれ変わったのか気になって、得意の神通力を使って捜しました。
 さぞかし、よい所に生まれて いるだろうと思っていた予想に反して、母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいました。

 餓鬼道とは、食べたくても食べられない世界のことです。

 母の苦しみを見かねた目蓮は、母に食べ物を与えますが、母が目蓮の差し出した食べ物を手に持ったとたん、燃え上がって炭になってしまいます。
 何回やっても同じでした。
 「神通第一」の目蓮でも、母を救うことができません。

 困り果てた目蓮は、お釈迦さまに相談します。
 お釈迦さまは、

   ”7月15日に修行が終わる僧たちに食べ物を供養しなさい!”

と答えました。
 目蓮は、お釈迦さまの言われたとおりにしました。
 その結果、目蓮の母は、食べ物を供養された僧たちの功徳によって、餓鬼道から救われたということです。

 この話が元になって、お盆の行事が生まれました。
 昔の7月15日は、現在の暦では8月15日にあたります。

 お盆の話から私たちが考えるべきは、「ご先祖を苦しめるような生き方を、私たちがしていないだろうか?」ということです。
 ご先祖は、意味もなく地獄や餓鬼道に堕ちるのではありません。
 私たちが、ご先祖を地獄や餓鬼道に堕とすような生き方をするから、ご先祖が苦しむのです。
 ご先祖を、私たちが苦しめているのです。

 お盆は、わが身の生き方を振り返る季節でもあります。


【 風流な夏 】

 7月、あるお寺の魂迎会に講師として招かれました。

 住職さんが、奥座敷に案内してくれました。
 奥座敷の戸障子はすべて開け放たれ、夏らしいおもむきでした。
 床の間に、一幅の掛け軸が掛かっています。
 掛け軸には、「開神悦體(かいじんえったい)」と書かれてあります。
 この文字を見たとき、住職さんの粋で風流な「もてなし」に感激しました。
 というのは、「開神悦體」とは、「ゆったりとしてくつろぐ」というような意味で、『仏説無量寿経』というお経に説かれることばだからです。       

 お経には、次のように説かれています。

   極楽浄土には清らかな池があり、色とりどりの蓮の花が咲いている。
   極楽浄土に住む人たちが、その池で沐浴すると、「開神悦體」する。

 「開神悦體」は、極楽浄土の清らかな池の水を浴びた人が得る功徳を表すことばです。

 私が訪れたお寺の住職さんの心は、おおよそ次のようなものであったはずです。

   暑い日に、ようこそお越し下さいました!
   何のおもてなしも出来ませんが、「開神悦體」の軸を掛けました!
   極楽浄土の池に足を浸して涼むつもりで、おくつろぎ下さい!

 夏の暑さは、どうすることも出来ません。
 クーラーの効いた部屋にいれば、暑さを忘れますが、部屋から出たとたん、”暑いー!”となって、不快な気分に逆戻りです。

 クーラーが無かった時代の人の耐暑法は、暑さを涼しさに変えることでした。
 気温を変えるのでなく、心を変えるのです。
 暑いと思っている心を、涼しいと思う心に変えるのです。

 たとえば「開神悦體」の軸を掛けて、極楽浄土の池に足を浸した気分になって涼むという方法です。
 また、風鈴を吊して、涼しげな音を聞きながら、涼やかな気分でくつろぐという方法もありました。
 さらに、朝顔を植えて、朝顔の葉の緑で、さわやかな雰囲気を演出するという方法もありました。

 これらの方法は、暑い夏を「風流な夏」に変えました。

 私たちは、クーラーの普及で、「風流な夏」を忘れてしまったようです。
 四季のはっきりした国土に住む日本人は、風流に生きることを「日本人の心」としてきました。
 風流に四季を楽しむことが、日本人の心でした。

 極楽浄土では、風流なもてなしが用意されています。
 このもてなしは、極楽浄土に生まれる人がいただくご利益です。

 その極楽浄土の風流なもてなしを、この世において楽しむ。
 極楽浄土のご利益を、この世にいながらにしていただいて生きる。

 これが、念仏者のありさまであります。
                              合掌


平成23年8月

【 お寺の行事 】


    8月20日(土) お 講 08:00 お勤め
                   09:00 おとき
                   当番 谷川組

           お誘い合わせてお参り下さい。

           
    8月12日(金) 墓掃除 08:00

             極應寺境内地内墓地の一斉清掃を行います。

【 りんごの唄 】

 昭和20年9月、終戦直後の焼け野原となった日本の街に、並木路子さんが歌う♪りんごの唄♪が流れました。

          ♪赤いリンゴに くちびる寄せて
           だまって見ている 青い空
           リンゴは何にも いわないけれど
           リンゴの気持ちは よくわかる
           リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ♪


 しかし、当時の並木路子さんは、こんな明るい唄を歌っている状況ではありませんでした。
 終戦5ケ月前の3月9日、アメリカ軍の東京大空襲で焼け出され、母親と東京の街を逃げ回っているとき、火の熱さに耐えかねて、母とともに隅田川に飛び込みました。川の流れが速く、母は、速い流れに足を取られて流され、はぐれてしまいました。母は、川に飛び込んだ大勢の人たちといっしょに、海に流されてしまったのです。
 並木路子さんは、「掴まりなさい!」と声を掛けてくれた男性の手に必死にしがみついて、助けられました。
 母を亡くした並木路子さんは4人兄妹でしたが、次兄は乗艦していた船がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され戦死。父も、すでに戦死していました。
 6人家族の半数を失った並木路子さんは、とても、♪りんごの唄♪を歌う心境になれませんでした。
 ♪りんごの唄♪を、レコードに吹き込むとき、作曲家の万城目正さんが、「もっと明るく歌いなさい!」「君ひとりが不幸じゃないんだ!」と励ましました。
 並木路子さんは、明るくはずむ歌声で歌いました。
 その歌声が、敗戦で何もかも失い、うちひしがれた日本人の心に、乾いた土地に恵みの雨が染みこむように勇気と希望を届け、戦後復興の力を与えました。
 こうして大ヒツトした♪りんごの唄♪は、戦後歌謡曲の第1号として、歴史に残る名曲となりました。
 ♪りんごの唄♪大ヒットから50年後。
 平成7年に発生した阪神淡路大震災のとき、被災地を慰問した並木路子さんは、仮設ステージで、♪りんごの唄♪を歌いました。当時の新聞は、「焼け跡にふたたび♪りんごの唄♪が流れた」と報じました。
 また、今回の東日本大震災では、宮城県の山元町は、臨時のFMラジオ局を開設して、被災者の人たちに色々な情報を流しています。
 そのラジオ局の名前が、「りんごラジオ」。
 「りんごラジオ」は、山元町の特産りんごと、戦後の日本人を元気づけた♪りんごの唄♪に思いを込めて名付けたということです。♪りんごの唄♪は、悲しみの底にある人々に勇気と希望を与え、時代を超えて歌い継がれていくことでしょう。
 そもそも、真に、悲しみを知った人のみが、人々に明るさを届けられるのかも知れません。真に、苦しみを経験した人のみが、優しくなれるのかも知れません。
 お釈迦さまが王位を捨てて出家されたのは、真に、人の世の「生老病死」を深く悲しみ、その苦しみからの解放を求めてのことでした。
 6年間の修行の後、さとりを開かれたお釈迦さまは、たくさんの教えを残しました。その教えが、時代を超えて伝えられ、お念仏の教えとして私たちに届けられています。
 そのお念仏の教えが、私たちの♪りんごの唄♪なのです。
 お念仏は、私たちを「生老病死」の苦しみから解放し、私たちに勇気と希望をもたらす名号です。
 今年は、親鸞聖人750回御遠忌の年。
 お念仏の教えを伝えてくださった親鸞聖人のお心に深く近づき、念仏とともに生きる日暮らしを確かなものにしたいものです。

【 勝利 】
 仏教に、「勝利」ということばがあります。
 普通、勝負事に勝つことを「勝利」と言いますが、仏教の「勝利」は、そういう意味ではありません。
 仏教では、「すぐれたご利益」のことを「勝利」と言います。
 「八百長」問題で大揺れに揺れた大相撲が、名古屋場所から再開されました。
 歴史に残る「八百長」問題は、昭和38年9月、秋場所の千秋楽、結びの一番、横綱大鵬×横綱柏戸戦です。
 大鵬は、7月の名古屋場所までは6場所連続優勝。7場所連続優勝を目指しましたが、大関北葉山に優勝をさらわれました。「優勝を取り返してやろう!」と意気込んで迎えた秋場所でした。
 一方、柏戸は、怪我で、名古屋場所まで4場所連続休場。再起をかけて臨んだ秋場所でした。
 両者とも、14戦全勝で迎えた千秋楽。
 場内の割れんばかりの歓声の中で、行司の軍配がかえりました。
 「ガン!」とぶつかり会った両者でしたが、勝負は、あっけなく決まりました。
 柏戸が、寄り切りで勝ったのです。
 このテレビを、たまたま旅先の宿舎で見ていた石原慎太郎さんが、「八百長」だと言い出したことで、大騒ぎになりました。
 問題が、訴訟まで発展しそうになったとき、石原慎太郎さんは、「自分は、相撲など知らないし、見たこともなかった。たまたま見た大鵬×柏戸戦が、あまりにも簡単に決着したので、八百長と思っただけで、深い意味はない。八百長発言を取り消します!」と発表したことで、大鵬・柏戸の八百長問題が収まりました。
 問題が収まったあと、大鵬と柏戸が同じ車に乗ることがありました。
 大鵬が、「怪我から復帰して全勝優勝したのに、八百長と言われて悔しかったろう!」と声をかけたところ、柏戸は、「うん!」と言って大粒の涙を流して泣き出しました。
 柏戸の涙を見た大鵬は、「柏戸は、素直で純粋な人なんだな!」と感じ、柏戸という相撲取りをいっぺんに好きになりました。
 柏戸の涙がきっかけとなり、ライバルと言われ、自分たちもライバルと意識してきた2人が急に近づき、一緒に飲みに出かける仲になりました。
 このことを、「勝利」と言うのです。
 勝負の世界に生きる者同士が、勝ち負けを超えた世界で出会うことを「勝利」と言うのです。
 勝ち負けを超えた世界、損得を超えた世界、敵味方を超えた世界、そういう世界があることを、「勝利」ということばが教えてくれています。
 その世界こそが、真に、安らげる世界なのです。 合掌

平成22年8月

【 お寺の行事など 】

      8月 8日(日) お講 8時 お勤め
                9時 おとき
                当番 石川組

      8月12日(木) 墓掃除  極應寺境内地内墓地の一斉清掃を行います。

      8月21日(土) 親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け法要


                       お誘い合わせてお参り下さい。

【 語りつぐ 】

 市原悦子さんをご存じかと思います。
 映画やテレビなどで個性的な役を演じる女優さんであり、声優さんでもあります。
 以前、テレビアニメで「まんが日本昔ばなし」という番組がありました。常田富士男さんが、おじいさんの声を担当し、市原悦子さんは、おばあさんの声を担当しました。
市原悦子さんは、昭和11年、千葉県に生まれました。終戦時が9歳ですから、戦争のことは、はっきり記憶しています。そして、終戦後の食糧難の中で少女時代を育ちました。
 この体験が、市原悦子さんの人格形成に大きな影響を与えました。市原さんは、「あの時代が、私のすべてを形作りました」と語っています。
 市原さんは、50歳頃から、戦争童話の朗読会を始めました。戦争童話にこだわったのは、あの時代を語ることが、あの時代を生きた者の責任だと考えたからです。
 市原さんが朗読するのは、あまんきみこさんの『ちいちゃんのかげおくり』という童話です。
 この童話は、小学校3年生の国語の教科書にも載りました。


  『ちいちゃんのかげおくり』    あまんきみこ

 「かげおくり」って遊びをちいちゃんに教えてくれたのは、お父さんでした。
 出征する前の日、お父さんは、ちいちゃん、お兄ちゃん、お母さんをつれて、先祖のはかまいりに行きました。
 その帰り道、青い空を見上げたお父さんが、つぶやきました。
 「かげおくりのよくできそうな空だなあ。」
 「えっ、かげおくり?」
と、お兄ちゃんがきき返しました。
 「かげおくりって、なあに?」
と、ちいちゃんもたずねました。
 「とお、数える間、かげぼうしをじっと見つめるのさ。とお、と言ったら、空を見上げる。すると、かげぼうしがそっくり空にうつって見える。」
と、お父さんが説明しました。
 「父さんや母さんが子どものときに、よく遊んだものさ。」
 「ね。今、みんなでやってみましょうよ。」
と、お母さんが横から言いました。
 ちいちゃんとお兄ちゃんを中にして、4人は手をつなぎました。
 そして、みんなで、かげぼうしに目を落としました。
 「まばたきしちゃ、だめよ。」
と、お母さんが注意しました。
 「まばたきしないよ。」
 ちいちゃんとお兄ちゃんが、やくそくしました。
 「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ。」
と、お父さんが数えだしました。
 「よーっつ、いつーつ、むーっつ。」
と、お母さんの声も重なりました。
 「ななーつ、やーっつ、ここのーつ。」
 ちいちゃんとお兄ちゃんも、いっしょに数えだしました。
 「とお!」
 目の動きといっしょに、白い4つのかげぼうしが、すうっと空に上がりました。
 「すごーい。」
と、お兄ちゃんが言いました。
 「すごーい。」
と、ちいちゃんも言いました。
 「今日の記念写真だなあ。」
と、お父さんが言いました。
 「大きな記念写真だこと。」
と、お母さんが言いました。

 次の日、お父さんは、白いたすきをかたからななめにかけ、日の丸のはたに送られて、列車に乗りました。
 「体の弱いお父さんまで、いくさに行かなければならないなんて。」
 お母さんがぽつんと言ったのが、ちいちゃんの耳には聞こえました。

     (略)

 夏のはじめのある夜、空しゅうけいほうのサイレンで、ちいちゃんたちは目がさめました。
 「さあ、急いで。」
 お母さんの声。
 外に出ると、もう、赤い火が、あちこちに上がっていました。
 お母さんは、ちいちゃんとお兄ちゃんを両手につないで、走りました。
 風の強い日でした。
 「こっちに火が回るぞ。」
 「川の方ににげるんだ。」
 だれかがさけんでいます。
 風があつくなってきました。
 ほのおのうずが追いかけてきます。
 お母さんは、ちいちゃんをだき上げて走りました。
 「お兄ちゃん、はぐれちゃだめよ。」
 お兄ちゃんが転びました。足から血が出ています。ひどいけがです。
 お母さんは、お兄ちゃんをおんぶしました。
 「さあ、ちいちゃん、お母さんとしっかり走るのよ。」
 けれど、たくさんの人に追いぬかれたり、ぶつかったり……、ちいちゃんは、お母さんとはぐれました。
 「お母ちゃん、お母ちゃん。」
 ちいちゃんはさけびました。

     (略)

 ちいちゃんは、ひとりぼっちになりました。
 ちいちゃんは、たくさんの人たちの中でねむりました。

 朝になりました。
 町の様子は、すっかりかわっています。
 あちこち、けむりがのこっています。
 どこがうちなのか……。
 
     (略)

 その夜。
 ちいちゃんは、ざつのうの中に入れてあるほしいいを、少し、食べました。そして、こわれかかった暗いぼう空ごうの中で、ねむりました。
  (お母ちゃんとお兄ちゃんは、きっと帰ってくるよ。)
 くもった朝が来て、昼がすぎ、また、暗い夜がきました。
 ちいちゃんは、ざつのうの中のほしいいを、また少しかじりました。
 そして、こわれかかったぼう空ごうの中でねむりました。

 明るい光が顔に当たって、目がさめました。
  (まぶしいな。)
 ちいちゃんは、暑いような寒いような気がしました。
 ひどくのどがかわいています。
 いつの間にか、太陽は、高く上がっていました。
 そのとき、
 「かげおくりのよくできそうな空だなあ。」
というお父さんの声が、青い空からふってきました。
 「ね。いま、みんなでやってみましょうよ。」
というおかあさんのこえも、青い空からふってきました。
 ちいちゃんは、ふらふらする足をふみしめて立ち上がると、たった1つのかげぼうしを見つめながら、数えだしました。
 「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ。」
 いつの間にか、お父さんのひくい声が、重なって聞こえだしました。
 「よーっつ、いつーつ、むーっつ。」
お母さんの高い声も、重なって聞こえだしました。
 「ななーつ、やーっつ、ここのーつ。」
お兄ちゃんのわらいそうな声も、重なってきました。
 「とお!」
 ちいちゃんが空を見上げると、青い空に、くっきりと白いかげが4つ。
 「お父ちゃん。」
 ちいちゃんはよびました。
 「お母ちゃん、お兄ちゃん。」
 そのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。
 一面の空の色。
 ちいちゃんは、空色の花畑の中に立っていました。
  見回しても見回しても、花畑。
  (きっと、ここ、空の上よ。)
と、ちいちゃんは思いました。
  (ああ、あたし、おなかがすいて軽くなったから、ういたのね。)
 そのとき、向こうから、お父さんとお母さんとお兄ちゃんが、わらいながら歩いてくるのが見えました。
  (なあんだ。みんな、こんな所にいたから、来なかったのね。)
 ちいちゃんは、きらきらわらいだしました。わらいながら、花畑の中を走りだしました。
 夏のはじめのある朝。
こうして、小さな女の子の命が、空に消えました。

     (略)

平成21年8月

【 お寺の行事 】


      8月 9日(日) お講   おつとめ 08:00
                     お と き 09:00
                     当  番 土 肥 組

                 お誘い合わせてお参り下さい。


      8月12日(水) 墓掃除  極應寺墓地の一斉清掃を行います。  


【 心の眼 心の耳 】

 全盲のピアニスト、辻井伸行さん(21歳)が、アメリカで行われた国際ピアノコンクールで優勝しました。
 辻井さんは、生まれつき目の見えない視覚障害者です。 辻井さんの音楽の才能に最初に気づいたのは、母親いつ子さんでした。生後8ケ月で、これまで聞かせていたCDとはちがったCDを聞かせたところ、足をバタバタさせて嫌がったことがきっかけでした。
 ピアノは、2歳から習わせました。ピアノの先生の膝に抱っこされて、先生の弾くピアノを聞くことから始めました。
 2歳と3ケ月のころ、母いつ子さんの歌う♪ジングルベル♪に合わせて、おもちゃのピアノで伴奏しました。
 7歳で、盲学生のピアノコンクールで1位。
 10歳で交響楽団と共演して、ピアノ奏者としてデビュー。
 以後、ソロ・リサイタルや交響楽団とのコンサートなどを経て、今回の受賞となりました。
優勝後、テレビのインタビューで、”もし、目が見えたら何を見たいですか?”と聞かれ、”両親の顔が見たい”と答え、”でも、今は心の眼で見ているので満足しています”と続けました。
 辻井さんは、太陽の光も認識できない視覚障害者です。
 その辻井さんに、お父さんやお母さんの顔が見えているのです。お父さんやお母さんの顔が見えることは、楽譜もピアノの鍵盤も見えています。辻井さんは、父母の顔や楽譜や鍵盤を、「心の眼」で見ているのです。
 これに対して、健常者の眼や耳は、案外、いいかげんなものです。
 私たちは、自分の眼で見、自分の耳で聞いているから確かだと思っていますが、見ていて見ていない、聞いていて聞いていないことがままあります。肝心なところを見逃し、大事なところを聞き逃していることもよくあります。
 なぜ、見えているのに、聞いているのに、こんなことが起こるのでしょうか。
 それは、自分の都合で見、自分の都合で聞いているからです。自分の都合が邪魔して、違ったように見てしまったり、違ったように聞いてしまったりするからです。
 自分の都合とは、自分の狭い了見のことです。狭い了見とは、自分の考えだけが正しいと思いこむ心のことです。その心にとらわれて、見たり、聞いたりすると、事実や真実とすれちがってしまうのです。
 最近、「クラヤミ食堂」が注目されています。
 「クラヤミ食堂」とは、料理を目隠ししたまま食べさせるレストランのことです。
 お客さんは、レストランの入り口で目隠しを付け、テーブルまで連れて行ってもらい、手探りでスプーンや箸を捜し、手探りで皿を捜し、手探りで料理をすくったり、つまんで、口に運んで食べます。
 このレストランは、視覚障害者を理解してもらうイベントとして、スイスで始まったそうです。それが、またたくまに、世界に広がりました。
 そのわけは、料理を見ずに食べたほうが、食材や料理の持つ本来の味や味付けが分かって美味しいからです。
 私たちは、普通、料理の色や形などを見てから食べます。料理を見たとき、先入観が入ります。この料理は美味しそうだとか、あまり美味そうでないなどという先入観、自分の思いこみ、自分の都合です。先入観を持ったまま料理を食べると、どうしても、その料理の持つほんとうの味を味わうことができません。先入観が、料理本来の味を味わうことを邪魔するのです。
 料理は、眼で味わうものではありません。舌で味わうものです。料理を眼で見る過程をとばして、「心の舌」で味わってもらうのが、「クラヤミ食堂」のねらいです。 私たちの眼や耳は、自分の外の世界を知る仲立ちをしてくれています。このことは、ありがたいことです。ありがたいことですが、ほんとうに大事なことではありません。
 そのことを、辻井伸行さんが教えてくれました。
 ほんとうに大事なことは、「心の眼」で見、「心の耳」で聞くことです。
 「心の眼」と「心の耳」は、誰でも持っています。
 私たちは、そんなことを忘れ、「心の眼」で見、「心の耳」で聞くことも忘れて、自分の都合だけで生きているのではないでしょうか。

【 軍隊手帳 】

 Tさんの父親は、硫黄島で戦死しました。遺骨は、まだ帰っていません。
 硫黄島は玉砕の島と言われ、日本軍と米軍の壮絶な闘いにより、両軍ともたくさんの戦死者を出しました。
 戦後、硫黄島で、ブルトーザーで工事中の作業員が、土の中から出てきた1冊の軍隊手帳を見つけました。その手帳は、Tさんの父親のものでした。
 作業員は、手帳をTさんに届けました。
 手帳を受け取ったTさんは、父の望郷の一念がこの手帳を届けたのだと思い、厚生省が計画した硫黄島遺骨収集巡拝団に参加しました。
 航空自衛隊の飛行機が、硫黄島上空に近づいたとき、機長さんが、操縦室に入れてくれました。操縦室から豆粒のように見えた硫黄島がだんだん近づいてきたとき、Tさんは、「とうとう、父の眠る島に来た!」と思うと、胸が熱くなりました。
 硫黄島に降り立ったTさんは、父の軍隊手帳が見つかった飛行場跡地で、父が眠る場所をここと決めて、家から持参した水を供え、ろうそくを灯し、線香も供えてお参りしました。 ”父ちゃん迎えに来たぞ! 一緒に帰えらんか! 長い間、ほっといて堪忍して!”と言って、小さな石ころを拾って帰りました。
 Tさんは、2回目の硫黄島遺骨収集巡拝団にも参加しました。
 このとき、父の墓を作って背中に背負って、自衛隊の飛行機に乗りました。自衛隊員から、 ”そんな物を持って行ってはいけない!”と止められましたが、わけを話して無理矢理機内に持ち込みました。
 そして、父が戦死したと決めた場所に墓を据えてお参りしました。
 3回目の硫黄島遺骨収集巡拝団にも参加しました。
 さっそく父の墓にお参りしようと行ってみたら、そこは公園になっていて、父の墓がありません。父の墓が見あたりません。現地の人に尋ねると、 ”Tさんの墓なら、あそこにあります!”と言って案内してくれました。父の墓は、公園の端に移され、丁寧に据えられてありました。ありがたいと思いました。
 Tさんは、父の墓の前でひざまずき、時の移るのも忘れて、ずっと祈り続けていました。   合掌

平成20年8月

【 お寺の行事 】

      8月 6日(水) お 講  8時 お勤め
                      9時 おとき 当番・福島組        
              お誘い合わせてお参りください。

      8月12日(火) 墓掃除  極應寺墓地の一斉清掃を行います。

【 無財の七施 】

 人は、どんなときに「幸せ」を感じるか研究した人がいます。
 結果は、人のためにお金を使ったときと出ました。
 アメリカ人は、年間1世帯あたり約200,000円寄付するそうです。日本人の年間1世帯あたり平均寄付額が約2,200円ですから、アメリカ人は日本人の実に90倍もの額を寄付していることになります。ということは、アメリカ人は、日本人よりはるかに大きな「幸せ」を感じて生活していることになります。
 そして、アメリカ全体の年間寄付総額の半分は、非富裕層の人たちの寄付によるものだそうです。非富裕層とは、お金に余裕のない貧乏な人たちのことです。この人たちの寄付が、全体の半分を占めているのです。
 何でもアメリカのまねばかりだと非難される日本人ですが、アメリカ人の寄付に対する考え方には、学ぶところがあるように思います。 
 寄付は、仏教のことばで言えば「布施」にあたります。「人にほどこす」ことです。布施には、財施・法施・無畏施の3つがあります。財施とは、財産をほどこすこと。お金や物をほどこすことです。法施とは、教えを説いて伝えることです。そして、無畏施とは、怖れを取り除いてあげることです。人は、生きるうえで、さまざまな不安や心配事をかかえています。その心配事や不安を取り除いてあげることです。このことも、布施になります。布施は、お金や物を寄付することばかりではありません。人のために何かをすることは、すべて布施になります。
 布施は、仏さまに近づく行いです。「執着心」(とらわれる心)を取り払ってくれるからです。
 お金にとらわれる、財産にとらわれる、名誉や地位にとらわれると、それらを自分のものにしようとする独占欲をかきたてます。一度つかんだら放さない、そしてさらに欲しくなるという貪欲な心をますます大きくさせます。仏教では、これを「毒を飲む」ことにたとえています。執着心を太らせることは、毒を飲んだうえにさらに毒をあおることに等しいと説きます。毒を飲めば、健康を害します。執着心は、心の健康を害します。心が不健康になると、「幸せ」を感じることが少なくなります。
 先頃、国別の生活満足度を調べた人がいます。日本は、10点満点中6点でした。アメリカは7点でした。この調査でも、アメリカは日本を上回っています。日本は経済大国の仲間入りをしましたが、いくらお金を持っていたとしても、ケチな根性では、「幸せ」を感じることが少なく、生活に満足する度合いも低くなります。自分のためにお金を使えば、一時的に満足度は高まりますが、長続きしません。すぐに、次のものが欲しくなります。これに対して、人のためにお金を使えば、お金では買えない大切なものをさずかり、その喜びは長く続きます。
 お金がなくてもできる「布施」があります。その布施を「無財の七施」と言います。眼施(やさしいまなざし)・和顔施(おだやかな顔つき)・愛語施(思いやりのあることば)・身施(奉仕作業)・心施(他の人の心の痛みや苦しみに同情する)・牀座施(自分が座っている場所をゆずる)・房舎施(他が安心しておれる場所を提供する)の7つです。
 この中の1つでもできれば、人間関係がスムーズになり、社会生活を送るうえで感じる「幸せ感」や「満足度」が高まります。

【 野茂選手引退 】  

 バッターにお尻を向けて、体を回転させて投球する独特の投げかたで活躍した野茂英雄投手が引退しました。
 野茂選手はアメリカに渡り、数々の記録を残しました。野茂選手の活躍で、日本人選手のアメリカでの評価が高まり、多くの日本人選手が渡米しました。
 野茂選手は最後まで現役にこだわり、現役をずっと続けたいと思っていました。 力の限界を感じた野茂選手は、引退会見で、「引退する時に、悔いのない野球人生だったと言う人もいるが、僕の場合は悔いが残る」と述べました。
 自分は続けたいと思っていても、どうにもできないときがあります。あきらめねばならないときがあります。どうにもで きず去らねばならないと き、「悔い」が残るのは当然のことでしょう。
 では、人は死ぬとき、どう思って死んで逝くのでしょうか。「死ぬ」ことも、現役引退です。人生から引退して死を迎えるとき、「悔いはない」と思って死んで逝けるでしょうか。かつて、110歳を超えて長生きした男性に、記者がインタビューしたとき、「何歳まで生きたいですか?」との質問に対して「そりゃ、死にたくないわの!」と答えていました。人間は、どれだけ生きても現役続行を望むもののようです。親鸞聖人も、「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるとき、かの土へはまいるべきなり」と、『歎異抄』で述べています。親鸞聖人も、娑婆への執着は死ぬまで消えないだろうと考えていました。
 これが、ほんとうのところではないでしょうか? 娑婆に未練を残しながら死んで逝く。これで、普通なのです。人生を完結させて死ねる人はまれでしょう。皆、思い半ばで死んで逝くのです。人生は、途中で終わるということです。その覚悟ができれば、これまでの生き方が少しは変わるのではないでしょうか。
 「僕の場合は悔いが残る」と述べた野茂選手は、正直な人だと思います。「悔いが残る」と言えたのは、覚悟できたからではないでしょうか。このことばを述べたとき、野茂選手には、新たな方向がすでに見えていたのです。 

【 盆花 】

 私たちが、「盆花」と言っている花の正式名称は「ミソハギ」です。別名を「ショウリョウバナ」とも言います。「精霊花」と漢字を当てます。先祖の霊が帰ってくると言われるお盆の頃に咲くことから、この名が付けられたのでしょう。「盆花」も別名です。名前の由来は、精霊花と同じです。
 「みそはぎ」は「禊萩」と書きます。「禊」とは、身を清めることですから、この名も仏教にちなんで付けられたのかも知れません。若葉は食用になるそうですが、こんな事情を知ったら、食べる気がしなくなるかも知れません。
  お盆の頃に咲く花は、すべて「盆花」だと言う人もいます。そうすると、女郎花(おみなえし)や桔梗(ききょう)なども盆花です。お盆には、盆花を墓前にお供えして、心静かにご先祖を偲びたいものです。  合掌

平成19年8月

 【 お寺の行事 】

         8月12日(日) 墓掃除   極應寺墓地の一斉清掃を行います。

         8月19日(日) お 講  おまいり 午前8時  おとき 9時
                        当  番 道 辻 組

                 お誘い合わせてお参りください。

 【 戦後は終わらない 】

 親鸞聖人は『歎異抄』で、人間というものは「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし……さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と説きました。
 人間が人を殺すのは、その人の心が良いとか悪いとかではなく、「さるべき業縁」に遇えば、殺したいと思っていなくても殺してしまうものだというのです。
 先の大戦では、多くの若者が出征しました。敵国に勝つためです。敵国に勝つということは、敵を殺すということです。しかし、敵を殺すはずが、敵に殺されることにもなりました。
 先日、太平洋戦争の激戦地となったインドネシアのビアク島で、旧日本兵の遺骨70体が発見されたという記事が新聞に載りました。
 ビアク島は、日本軍の戦略上の最重要拠点となり、陸海軍の守備隊12,800人の将兵が配備されました。しかし、米軍の圧倒的な上陸により12,000人以上が戦死したと言われています。そして、戦死した兵士の遺体は収容されることなく、戦場に放置されたままになりました。
 戦後、遺骨の収集が行われましたが、収集団は林の中
野ざらしになっている遺骨と  に放置された遺体を見つけることはできませんでした。 そして、政府による計画的な遺骨収集作業は、昭和50 年で終了しました。その後は、民間の団体によって、任意の収集作業が行われています。今回の発見は、NPO法人の慰霊団によって確認されたものでした 海外で戦死した旧日本兵は240万人と言われています。いまだ、115万5千人の遺骨が放置されたままになっています。
極應寺の第24代住職となるはずだった元藤了巳師も、海外で戦死しました。南方へ転進する途中、マラリヤに罹って戦病死したと聞いています。届けられた骨箱には、了巳師が使っていた腕時計だけが入っていました。遺骨は、まだ帰っていません。了巳師が、どういうふうに死んで行ったのか、遺体はどうなったのか、今となっては知るよしもありません。
 了巳師は、どういう思いで出征したのでしょうか。大義としては、「お国のため」ということだったのでしょうが、本音のところでは、違ったものがあったように思われます。このことは、多くの将兵にも当てはまったのではないでしょうか。
 了巳師には、出征前に結婚話がありました。この話を、了巳師は断りました。自分が戦死した場合、遺された者がかわいそうだと言ったと伝え聞いています。そして、左手の小指の爪を残して出征しました。心根が優しく、戦死を覚悟した出征は、とても人を殺しに行く者の心構えとは思われません。
 そして、帰ることはありませんでした。
 遺骨の収集が終わらず、どのようにして死んだのか、遺体はどうなったのかが遺族に知らされない段階で、「戦後が終わった」などと軽々には言えないのであります。

 【 他力を生きるとは 】

 能登半島地震で亡くなった宮腰貴代美さんの夫で、輪島市に住むすし職人、宮腰昇一さんが、すし店を再開しました。
 宮腰昇一さんは、妻の貴代美さんと二人三脚ですし店を営んできました。貴代美さんは、店内の掃除など雑用を一手にこなし、昇一さんを支えました。貴代美さんがいなくなった今、店の雑用や切り盛りは昇一さんがすべて一人で行わねばなりません。その上で、すしを握るのですから、59歳の昇一さんにかかる負担は大きすぎます。昇一さんは、一時、廃業を考えました。それでも、すし店の再会を決意したのは、お客さんの励ましでした。昇一さんの握るすしをひいきにするお客さんが、「がんばるまっしや」と言ってくれます。また、見ず知らずの人から励ましの手紙や、貴代美さんへの供物まで届けられました。
 忌明け法要のはがきを準備しようとしたときのことです。印刷を頼もうとした近所の印刷所が地震で倒壊し、営業していませんでした。そのとき、昇一さんは思いました。印刷所は倒壊したが、自分の店は大したこともなかった。「妻が守ってくれたのかも知れない」と。さらに、「多くのお客さんが応援してくれるのは、妻の努力のおかげだ」と。
 これらのことがあって、昇一さんは、「一人やけど、心の中の妻と二人でやっていく」と決意しました。
 そんな折り、新潟県で大きな地震が発生しました。被害は、能登半島地震とは比べものにならない甚大なものでした。多くの家屋が倒壊し、11人もの人が命を失いました。昇一さんは、能登半島地震のとき、新潟県の長岡から来たバランティアに片付けを手伝ってもらいました。昇一さんは、「このままでいいんか? 何か自分にできることはないのか」と、自分にできる恩返しを考えています。
 「他力を生きる」とは、昇一さんのことであります。「他力」の教えを、「自分は何もせず、人にまかせて楽をして生きる」ことのように考える人がいます。そうではありません。他力とは、人の、私に向けたはたらきかけであります。自分は何もしないのではなく、何かをしている私に対してはたらきかけてくるのが他力であります。昇一さんのことで言えば、お客さんの「がんばるまっしや」という励ましが他力であり、「妻が守ってくれた」とか「妻の努力のおかげだ」と思うことが、他力を感じて生きることであります。昇一さんは、自分に対する多くのはたらきかけを思うことで力が湧き、すし店再開を決意しました。すし店再会は、楽な道ではありません。他力は、困難な道を歩む者に勇気を与えてくれるのです。
 そして他力は、ここで終わりません。他力を生きる人は、人にはたらきかけるという行動を起こします。それが、新潟県の地震について、「何か自分にできることはないのか」と考える昇一さんのことばに表れています。    合掌

平成18年8月


【 お寺の行事 】


  8月12日(土) 墓掃除
             極應寺墓地の一斉清掃を行います。

   8月20日(日) お講  当  番・谷口組
                  お始まり・午前8時
                  お と き・午前9時
             お誘い合わせてお参り下さい。


【 お盆を迎える心 】

 8月1日を、「盆入り」と言います。お盆の月を迎える最初の日という意味です。
 お盆とは「盂蘭盆」(うらぼん)のことです。
 「盂蘭盆」とは、インドの「ウランバーナ」に漢字を当てたことばです。「ウランバーナ」とは、「足を縛られ、逆さに吊るされ、地獄に落ちる苦しみ」という意味です。その苦しみに会わないように、先祖の冥福を祈る行事を「お盆」と言うようになりました。
 また、お盆は8月15日とされています(旧暦では、7月15日)。
 お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道に落ちて苦しんでいる母を、餓鬼道から救い出すために、修行僧を供養した日が8月15日であったという故事にちなんでいます。
 日本では、この仏教行事から民間信仰が生まれ、お盆には先祖の魂が帰ってくると言われるようになりました。この民間信仰から、さまざまな行事が生まれ、迎え火や送り火、精霊流し、盆踊りもお盆の行事です。これらの行事は、全国各地で、地方色豊かに脚色され、お盆は日本の国民的行事となっています。
 そして、お盆は、先祖の霊を慰め、先祖の冥福を祈る行事であると考えるのが一般的です。しかし、私たちは、先祖のおかげで今あることを忘れてはなりません。そして、私たちは、今なお先祖のはたらきかけの中で生かされてあるのです。このことを強く思っている人は、少ないように見受けられます。
 先日、「亡き人を案ずる私が、亡き人に案ぜられている」ということばに出会いました。「案ずる」とは、心配するとか、心にかけるという意味です。私たちは、先祖のために、先祖のことを思って仏壇にお参りし、お経を読んだり、法事を勤めたりするものだと考えています。実は、それだけでは足りないのです。先祖の方々が、私たちのことを心配してくださっていることをも自覚すべきです。
 したがって、仏事は、生きている者から先祖へのはたらきかけというよりも、先祖からのはたらきかけに感謝して営むと考える方が、意味があるように思います。
 お経には、「光明偏照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(阿弥陀さまは、あらゆる世界の人々を救いの光で照らし、念仏の人々を救い取って、決して離すことはない)と、説かれています。このことを、親鸞聖人は、『正信偈』の中で「摂取心光常照護」(阿弥陀さまの救いの心の光が、常に私たちを照らし守っていてくださる)と言われました。
 私たちは、仏さまの摂取の光に照らされてあると同時に、先祖の私たちを案ずる心の光にも照らされているのです。
 この「案ぜられている私」に気付くことが、真宗門徒にとっての「お盆の心」であります。

【 火打谷と戦争 】

 極應寺と白山神社の間に道が通っています。この道は、かつては高浜へ出る往来でした。往事は、高浜へ出る人帰る人が行き交い、人通りも多く、人ばかりでなく馬車なども通ったことと思われます。
 この道を、極應寺を過ぎ、墓地を過ぎて少し行くと、左側に、石碑が2つ並んで建っています。2つとも、「記念碑」と刻まれています。向かって左側の石碑には、日露戦争で火打谷から出征して戦死した道辻善助さんと大久保又蔵さんの名が刻まれています。また、向かって右側の石碑には、先の太平洋戦争で火打谷から出征して戦死した5人の名が刻まれています。道辻勇次郎さん、大平義雄さん、出口久太郎さん、元藤了巳さん、谷口政雄さんの5人です。
 日露戦争の碑は、「有志社中」が建てたと刻まれています。太平洋戦争の碑には「青年団一同」が建てたと刻まれ、石工は荒屋の松田と刻まれています。
 先日の新聞に、戦没者遺族給付を受け取る人の数が減っているという記事が載りました。給付を受け取る権利のある人たちが高齢化し、亡くなっていっているからです。戦争を知っている人たちが減ってきたということは、戦争体験も風化してきているということです。
 このことは、火打谷においても同じです。戦争を語る人が少なくなるともに、石碑のことも忘れられようとしています。
 今、石碑は、草が生い茂り、掃除されることもなく、周囲の木も伸びて、薄 暗い中にひっそりと建っています。訪れる人もありません。
  石碑の建っている往来には、かつては分校があり、お堂があり、神社もあったことが伝 えられています。
今では、敷地だけが残り、跡地は「焼け分校」(やけぶんこう)「潰れ堂」(つぶれどう)「小宮」(しょうみや)と呼ばれ、ほとんど自然と同化して、昔のおもかげを偲ぶ手がかりすらありません。
 火打谷の、ひとつの時代の歴史と文化が埋もれ、忘れられようとしています。

【 葬式と子どもたち 】

 昔の葬式は、自宅で執りおこなわれ、三昧(さんまい)と言われる地区の火葬場で荼毘に付されました。
 火打谷でも、そのように行われ、風向きによっては、火葬場から運ばれてくる人間を焼くにおいが在所中に漂ったこともありました。そんなとき、子どもながらに、無常を感じたことを記憶しています。
 子どもにとって葬式は、ある種の楽しみでもありました。葬式に行くと野団子(のだご)がもらえたからです。野団子は、子どもにとって、平生は食べられない贅沢なおやつとなったからです。
 昔の葬式は、大人も子どももお参りしました。子どもも「お参りした」とは適切な表現ではないかも知れません。「参加した」と言った方が適切でしょう。葬式を出す家の子どもは別として、その場にいるその他の子どもたちの目的が別のところにあったからです。しかし、子どもたちにとって、葬式に参加することそのものが宗教教育の機会となっていました。葬式に参列した大人たちのようす、葬儀の儀式、葬式の飾り物、火葬場へ向かう葬列などを見て、葬式全体の雰囲気を体感することで、子どもたちは無意識のうちに、人生無常ということを学びました。
 それに比べ、現在の葬式は、儀式優先で、形式化してしまいました。子どもたちが参加する余地もなく、葬儀業者によって遅滞なく儀式が進行されます。
 便利とは、切り捨てるものがあるから便利と言います。そして、肝心なものを切り捨ててしまうことがあるということを見落としてはならないと思います。
                                                                              合掌

平成17年8月

【 形というもの 】

 8月は、ご先祖と出会う季節です。
 お盆には、家族でお墓参りに出かけたり、迎え火を焚いたり、お仏壇をお飾りして供え物などをします。日本人は、昔から、このようにして、ご先祖と出会ってきました。
 そして、お盆には、「盆踊り」がつきものです。盆踊りの起源は古く、日本人は昔から、先祖の霊をなぐさめるために踊っていました。その踊りが、仏教の渡来後に仏教色を強め、もともと宗教的な意味合いを持っていた踊りが、仏教的な意味づけをされて、日本のお盆の行事として定着しました。
 盆踊りは、現在では娯楽的な要素が強く、歌詞も仏教とは関係ない内容の盆踊り唄がほとんどのようです。したがって、盆踊りは、本来は宗教的な行事だったと知る人は少ないと思います。
 ♪踊る阿呆に 見る阿呆…♪ の歌詞で全国的に有名な徳島の阿波踊りは、現在でも、お盆の期間中に踊ります。徳島といえば、「阿波踊り」と言われるくらい、阿波踊りは、徳島県を代表する観光の目玉にもなっていますが、もとは盆踊りであったと言っても、信じる人は少ないでしょう。
 あの陽気で、にぎやかな踊りは、見る人をも楽しい気分にさせます。あの世から帰ったご先祖も、さぞかしこの世での楽しみを堪能することと思いますが、踊っている本人は、ご先祖をなぐさめるために踊っているという自覚はほとんどないものと思われます。
 「形」は残ったが、その意味が失われてしまったということでしょうか。
 しかし、東京の佃島の盆踊りは、今でも、仏教のことばを折り込んだ歌詞の数え唄が歌われています。
 佃島では、お盆になると精霊棚をしつらえて、「無縁仏」と書かれた掛け軸をかけ、かぼちゃやキュウリをお供えして、踊り手や見物人がお参りします。そして、その精霊棚の前で、盆踊りをします。
  ♪♪踊れ人々 供養のためじゃ 五穀実りて 大風もなし 天のめぐみぞ
    佛の音頭 恩を思えば 信心しやれ
    一に一世の 災難逃れ
    二には日夜に 気もやはらぎて
    三に三毒 消滅するぞ
    四には自然と 家富さかへ
    五には後生の うたがいはれて
    六に六親 仲むつまじく
    七に七福 其の身に備え
    八に「八大地獄」へ落ちず
    九には九品(くぼん)の 浄土に生まれ
    十で十方 成仏たすけ
    忘れまいどへ 朝夕ともに 信の一家が ただ肝要で
    座臥(ざが)に唱へよ  南無阿弥陀仏♪♪
 佃島は、昔から信仰の篤い土地柄でした。江戸時代には、佃島の人々が、築地本願寺の再建に多大な貢献をしたことから、築地本願寺とのつながりも強かったようです。そんな関係が、佃島の人々の心に、強い信仰心を芽生えさせました。佃島の盆踊り唄には、「仏供養」という題名がつけられています。その題名の示すとおり、歌詞には、「信心」「三毒」「後生」「八大地獄」「九品」「成仏」「南無阿弥陀仏」などといった仏教用語がふんだんに詠み込まれています。
 佃島の人々のお盆は、「仏供養」を歌い踊ることで、ご先祖と出会い、そのことで信仰を深めるとともに、信仰の伝統を受け継いで、今日に至っています。

 蓮如上人にも、盆踊りにまつわるエピソードがあります。
 蓮如上人が、河内の国の出口に滞在されたとき、大和の国の吉野から通って来る商人がいました。その商人に請われて、商人の古里である吉野へ出かけたことがありました。
 ところが、蓮如上人は、吉野では歓迎されませんでした。
蓮如上人の説く教えが、あまりにも吉野の人々の考えとかけ離れていたからです。吉野の人たちは、これまで仏さまの教えを聞いたことがなく、教えを受け入れる心の土壌というものがありませんでした。そのため、にわかには蓮如上人の教えを信ずることができなかったのです。
 蓮如上人は、この様子に心を痛め、「なんとかして、吉野の人々にお念仏の教えを広めたい」と思い、一計を案じました。
時は、ちょうどお盆の時期です。村の鎮守の森で盆踊りがあると聞いた蓮如上人は、付き添っていた弟子達に盆踊りを教えました。そして、夜になると、蓮如上人は、坊主頭に鉢巻きを巻いて僧衣をまとった弟子達を引き連れて、鎮守の森へ出かけました。鎮守の森では、もうすでに盆踊りが始まっています。上人は、頃合いを見はからって、自ら歌い出し、弟子達はそれに応じて踊り出しました。村人たちには、始めて見る踊りであり、始めて聞く歌詞でもありました。
 それ以来、蓮如上人は村人の関心を集めることとなり、翌日には、村の若い衆が踊り方を習いにやってきました。更に、踊り唄の文句の意味も尋ねました。
 蓮如上人は、待ってましたとばかり、踊り方を教え、唄の意味も教えました。上人が盆踊りで歌った唄は、親鸞聖人のご和讃に節をつけて歌ったものでした。蓮如上人は、ご和讃の意味を説明し、若者たちに諄々と仏さまの教えを説きました。このことをきっかけとして、吉野の人々は蓮如上人に帰依するようになり、お念仏の教えが吉野地方に広まることとなりました。
 これは、盆踊りという「形」がきっかけとなって、信仰が広まった例です。
 「形」には、その元になった「意味」があります。
 たとえば、踊りのひとつひとつの動作には意味があります。その意味を元にして、動きが作られています。しかし、踊りを教える場合、意味を先に教えることはしません。最初は、踊りの動作を教えます。そうすると、習った人は、踊っているうちに、自然に意味を理解していくということがあります。
 以前、テレビのコマーシャルで、おばあちゃんと孫たちが仏壇にお参りして、お参りの途中に、孫たちがそっと抜け出して行きます。それに気付いているおばあちゃんが、「いまに分かるようになるわよ」とほほえむシーンがありました。
信仰も、「形から入る」ことを大切にすべきです。子どものときに、祖父母に連れられてお寺参りしたとか、お寺で遊んだとか、お経を教えてもらったとかいうようなことが、信仰への道案内となります。そんな経験のない人に、大人になってから、いきなり信仰と言ってみても、その人には信仰を理解する手がかりがまったくありません。経験がないからです。
 私たちの日常には、一年間を通して、家庭やお寺で営まれる仏事や仏教に関係した行事が色々あります。それらの行事に、子どもたちを参加させておくということは、とても大切なことです。今は理解できなくても、大人になってから分かることがあります。「子どもは分からないから」と言って参加させないことは、一見、合理的なようですが、長い時間をかけて育まれるものがあることを忘れないようにしたいものです。
合掌



平成16年8月

 平成17年3月に、志賀町と富来町とが合併して新しい町が誕生します。
 このほど、新町名が「志賀町」と決まりました。
 新町名を決める合併協議会では、新町名を「志賀町」とすることに反対する委員は一人もいませんでした。一人の反対もなく、全会一致で「志賀町」と決まったのには、富来町側が、あらかじめ新町名を「志賀町」とすることに決めた上で合併協議会に臨んだという経緯があります。
 富来町は、合併協議会に先だって町議会を開きました。富来町議会では、新町名を「志賀町」とすることに異論を唱える町議もいたそうですが、最終的には全員一致で「志賀町」とすることに決めました。富来町には、どういう事情といきさつがあったのか分かりませんが、そうせざるを得ない事情やいきさつがあったものと思われます。しかし、長年慣れ親しんだ町名をみずから捨てることに抵抗を感ずるのは自然な感情です。富来町の人たちは、複雑な思いを抱きながら、苦渋の決断をしたものと思われます。
 そういう複雑な胸の内を汲んだのでしょう。志賀町長は「……富来町側の委員の皆さんには、新しい時代に向けて大乗的見地で決断していただいたと敬意を表したい。」とコメントしました。
 志賀町長が述べた「大乗的見地」の「大乗」とは、もともと仏教のことばです。仏教で「大乗」とは、大きな乗り物を意味します。大きな乗り物は、たくさんの人を乗せることができます。このことから、たくさんの人を救うことができる仏教の教えを大乗仏教と言うようになりました。また、たくさんの人を乗せることができる乗り物とは、たくさんの人を受け入れることができる「広い心」のたとえでもあります。
 したがって、志賀町長は「大乗的見地」という表現で、富来町の人々が、狭い考えにとらわれず、広い視野に立って「志賀町」という新町名を受け入れてくれたことに対して敬意と感謝の気持ちを表したいと述べたわけです。
  仏教には、「大乗」という考え方と「小乗」という考え方があります。大乗は、先にも述べたとおり「大きな乗り物」という意味で、「広い心」をたとえます。小乗は、その逆で「小さな乗り物」という意味です。「狭い心」をたとえます。そして大乗は「菩薩」と「仏」が達する境涯であり、小乗は「声聞」と「縁覚」が達する境涯と考えられています。そうすると、大乗とは、最高の境涯であるということになります。志賀町長の「大乗的見地」という発言は、富来町の人たちが、最高の境涯に立って決定した判断に対しての賛辞でもあったわけです。
 また仏教には、「十界」という考え方もあります。私たちは、十の境涯の中のどこかに住んでいるという考え方です。十のうちの六つを「六道」と言います。六道とは、ご存じのように「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天」の六界のことです。六道は、迷いの世界であり、苦しみの世界であります。中でも、「地獄・餓鬼・畜生」の三つが最も苦しい境涯であることから、「三悪道」と言います。六道以外の四つが、「声聞・縁覚・菩薩・仏」の境涯です。この四つは、悟りを開いた目覚めた境涯であり、安楽な境涯であることから、「四聖道」と言います。この四つの中に、大乗と小乗の区別があります。声聞・縁覚が小乗で、菩薩・仏を大乗と言います。
 では、大乗と小乗はどう違うのでしょうか。この違いについて、中国の善導大師は、「…自覚、覚他、覚行窮満、之を名づけて仏と為す。…」と説いています。「自覚」とは、目覚めているということです。目覚めているという点では、「声聞・縁覚・菩薩・仏」の四聖たちは、みな目覚めています。目覚めていないのは、六道に住む人たちだけです。六道に住む人は、次から次へとめまぐるしく苦しみが襲ってきますから、仏さまのことばに耳を傾ける余裕すらありません。
 次に、「覚他」とは、他を目覚めさせるはたらきという意味です。他を目覚めさせるはたらきは、菩薩と仏にしかありません。声聞・縁覚にはできないことです。この点で、大乗と小乗が区別されます。
 たとえば、お金をもうけても、施しをしないのが小乗の人です。もうけたお金を施すのが大乗の人です。困った人を見ても、助けないのが小乗です。困った人を見かけたら、見捨てられないのが大乗です。六道の人は、苦しみがいっぱいで、自分のことで精一杯ですから、とても他人のことなど考える余裕などありません。小乗の人も目覚めたとはいえ、他人のことを考えませんから、自分勝手でわがままなふるまいをします。わがままな人は、疑い深く、人を信じませんから、受け入れる度量も狭いということになります。だから、小乗と言うのです。
 したがって、小乗の人は、わがままで疑い深い心を捨てないかぎり、大乗の菩薩になることはできません。
 法蔵菩薩の四十八願の第三十三番目に、「触光柔軟の願」というのがあります。この願は、「もろもろの衆生を、私の光で照らして、身も心も和らぐようにしたい。」と誓われた願いです。仏さまの光に会って、身も心も和らぐとは、疑いやわがままな気持ちが消えるということです。疑いやわがままな気持ちが消えれば、人を信じることができるようになり、思いやりの心も生まれます。それが、大乗の心です。菩薩の心です。このようになったときはじめて、声聞・縁覚に止まっていた小乗の人が大乗の菩薩になれるのです。
 富来町の人たちは、大乗の心で志賀町の人たちを信じて、「志賀町」という新町名を受け入れました。その点では、菩薩的決断であったと言えます。しかし、志賀町の人たちは、新町名を「志賀町」以外にすることを選びませんでした。ということは、「志賀町」にこだわったということです。こだわったということは、小乗的な考えから離れられなかったということです。
 志賀町と富来町の合併以後の新町名を決める段階で、このような差が生まれました。このことを、志賀町の人たちが肝に銘じておかないと、あとで思いがけないトラブルを引き起こす原因にもなりかねません。         合掌

   お  講  8月8日(日)   お始まり  午前8時
                     お と き  午前9時
                    当  番  谷川さん組

  十四日講  8月22日(日)  会場・火打谷集会所
                  ※ 故谷口森茂さんの追悼法要が併せて勤ま ります。

                      お誘い合わせてお参りください。

平成15年8月

 今夏、近所にひまわり畑が出現しました。休耕田を利用して種をまいた
ものですが、この畑の周りにはたくさんの休耕田が広がっています。
 農業政策の都合でこのようになったわけですが、耕す田があり、人手も
あり、耕作意欲もあるのにほったらかしにしておいてよいものでしょうか。
 素朴な疑問を感じます。
 平年より5日遅れて北陸地方の梅雨が明けました。ようやく夏がやって来ました。極應寺でも、梅を干す作業が始まりました。そして、中旬にはお盆を迎えます。
 今月は、掲示板に、「迎え火や六親かぜのはるかより」という俳句を貼りました。
 仏教には「六親眷属」ということばがあります。「六親」とは、父・母・兄・弟・妻・子のことです。また「眷属」とは、親類の意味です。お盆には、子や兄弟・親戚が集まって血族としての絆を確かめるという風景が毎年くり返されます。日本の伝統的な風習です。
 そして、日本人はお盆には先祖の魂が帰ってくると考えました。その先祖の魂を迎えるために、仏壇に野菜や果物をお供えして、お墓参りをし、盆踊りをして祖先の魂を慰めました。先の俳句の「六親」とは、先祖の魂の意味です。こちら地方では、門口で先祖の魂を迎えるために、迎え火を焚くという習慣はあまり見かけませんが、この俳句は、門口の迎え火を目印にして、祖先の魂がはるかかなたから帰ってくるという意味のことを詠んでいます。
日本人は、祖先を大切にしてきました。そして、先祖を大切にすることで、血族の団結とか和を強め、その結果として、社会の秩序の安定も保たれてきました。
 しかし、日本人は、この伝統を失いつつあります。最近、そのことを伺わせる出来事が、少年が起こしたり、巻き込まれたりする事件に顕著に現れています。沖縄、長崎では、少年と子どもが加害者であり被害者でもありました。そして東京の渋谷では、少女たちが被害者になりました。事件にかかわった少年たちに共通するのは、家庭環境が良好でなかったという点です。親子の絆が切れ、そして、その親も、親族や社会との絆が十分ではありませんでした。
 『阿弥陀経』というお経には、東・西・南・北のそれぞれ国土に恒河沙数(数限りのない)の諸仏さまたちがおられ、さらに上方と下方の国土にもいらっしゃる数限りない諸仏さまたちまでも、極楽国土と阿弥陀仏のことを褒め称えていらっしゃると説かれてあります。
東西南北に住む諸仏さまとは、私たちの親族や社会の人たちのことです。そして、上方・下方の諸仏とは、私たちの先祖であり、未来の子孫たちのことです。
正しい生き方とは、周囲の人たちや、祖先や未来の子孫にも支持されるものでなければなりません。少年の犯罪や事件からは、それにかかわった少年たちばかりでなく、絆を失って苦しみもがきながら生きる親たちの悲鳴までも聞こえてくるような気がします。                    合掌。

        お講 8月24日(日) お始まり 午前8時
                     お と き 午前9時
                      当  番 福島さん組

          お誘いあわせてお参りください。



平成14年8月

蓮の花の掲載を考えましたが、あいにく境内にも近所にもありません。
蓮を探して歩いていると、お地蔵さんと出会いました。前掛けも新しく、そういえば地蔵盆ももうすぐです。
 お盆という行事は、お釈迦さまの弟子で目蓮という人が、餓鬼道に堕ちた亡き母を救うために、夏安吾を終えたお坊さんを供養したという話から始まりました。そして、その話が「盂蘭盆経」というお経に出ているところから「お盆」と言われるようになったのです。「盂蘭盆」ということばは「逆さ吊りの苦痛」という意味で、目蓮の母が餓鬼道に堕ちて味わった苦痛のことを意味します。
 現代の日本は、食べるものが豊富に有って、特別な場合を除き、飢えに苦しむということはありませんが、豊かな心に飢えているという人はたくさんいるように思えます。餓鬼というのは、もともと飢えて食べ物をむさぼる人という意味ですが、心に飢えた人も、やはり餓鬼ではないでしょうか。
 先日、20代前半の若い夫婦が、3歳の女の子を段ボール箱に閉じこめて、食べ物を与えずに餓死させるという事件がありました。この若夫婦は、何に飢えて何を求めたのでしょうか。この若夫婦は、生命のはるかな流れが、脈々と自分たちに受け継がれていることを忘れてしまいました。自分たちの生命の流れを自分の手で断ち切ってしまったのです。
 私たちは、今が良くても悪くても、営々と受け継がれてきた生命の流れの中にあります。そして、受け継いだ生命を伝えて行かねばならない責任があります。
 お盆という行事は、現在に至るはるかな生命を思い、未来に向かう永遠の生命に思いをはせるということでなければなりません。
 親戚・家族そろってのお墓参りなどで、はるかな生命を思うことで、これまでの自分自身の生き方を見直す機会としたいものです。           合掌