法 務 の 話 題

  ご門徒の方から色々な質問を受けます。質問には、僧侶である私にとって意表をつくものが多くあります。そんな時、私のまったくの不勉強を反省させられます。しかし、ずばり本質を問うご門徒の方々からの質問は、大いに勉強になります。
 そんな問答集をTopicsとして記録してみました。

13.仏壇の話

 ご門徒のお宅でのお参りの後、仏壇の話になりました。

 私 「最近の仏壇は、プラスチックの部品を使ったものがあって、チャチな感じがしますね。それに比べて、このお宅の仏壇は、昔に作られた本物ですから荘厳な感じですね。」

 お参りに来ていた女性 「うちの仏壇は、年中開けっ放しです。だって、仏壇に入れてある亡くなった主人の骨箱が邪魔して戸が閉まらないんです。」
 
 お参りに来ていた男性 「うちも開けっ放しだ。だって、戸を閉めっ放しにしておくと、どこからかネズミが仏壇に入って巣を作るから。
                 開けっ放しにしておけば、ネズミも用心して巣を作らないだろうと思って。」

 
こんな話で盛り上がってしまいました。
 仏壇の意味を理解してもらうチャンスと思って、話に割り込むキッカケを待ちましたが、とうとうそのチャンスは来ず、話が際限なく横道に逸れていってしまいました。
 ただただ、後悔の念が残ったしだいです。
 「義を見てせざるは勇無きなり」と言いますが、「機を見てせざるも勇無きなり」であります。

 

 

12.法名にかかわるあるできごと

 故人には、生前の法名が無く、亡くなったあと葬儀のとき、法名を遺族から頼まれました。

 枕勤めの読経のあと

 私 「亡くなったお父さんの法名はありますか。」

 故人の妻 「ないげわね。うちの父ちゃんは、あまり関心が無かったもんでね。ご院主さん、父ちゃんの法名をつけてくだい。お願いします。」

 私 「分かりました。」


 葬儀も終わり、初七日の法要が終わったあとのこと。故人の息子さんが、思いあまったように、私に質問してきました。

 故人の息子 「ご院主さん。ひとつ尋ねたいことがあるんですが。」

 私 「何ですか? 何でも質問してください。」

 故人の息子 「父親の法名をつけてもらったんですが、どんな意味ですか。実は、わたしが作っているカボチャの肥料の名前と同じなんですが?」

 法名は、故人の名前から一字もらって、仏典によらずつけました。故人のことを思って、善意でつけたつもりですが、それが、偶然、カボチャの肥料の名前と同じになったわけです。ということは、法名があまりにも俗っぽいものになってしまったということです。また、逆な見方をすれば、肥料の名前の方がよく考えられたものであったということにもなります。
 そのときは、説明に苦労しました。息子さんは、私の説明にも十分に納得したようすは見せませんでした。
 このことで、行き当たって法名をつけると、うまくいかないことがあることが分かりました。
 そして、このできごとが、私に大きな教訓を残しました。
  教訓一 法名を頼まれたら、必ず仏典によること。
  教訓二 門徒の方々には、生前に法名をもらっておくことを勧めること。
 


11.あるできごと(初七日のお参り−午後8時です。ご夫婦・若夫婦・子どもさん3人の家族全員がお参りしました。)

 初七日法要は、葬儀の日に済ませてしまうのが当地の習慣です。葬儀に参列した親戚を交えて、大勢で営みます。したがって、ほんとうの初七日の日は、家族だけのお参りということになります。
 初七日にもなると、葬儀のあわただしさも過ぎて、遺族の方も少しは落ち着いた気分になり、葬儀で経験したことを振り返る余裕も生まれます。そんなとき、素朴な疑問も出てきます。

 
読経前(骨前壇には、朝お供えしたお仏飯がそのままあります)

 ご主人  「おい、お仏飯を変えてくれ。」

 若いお嫁さん  「朝お供えしたもので済まそうと思っていたんだけど、ダメ?」

 ご主人  「そうだよ。朝お供えしたら、昼にはお下げしておくものだ。」

 若いお嫁さん  「は〜い。」

 
読経後

 私  「いいお香を使っていますね。葬儀屋さんが置いていったのですか?」

 ご主人  「ちがいます。七尾へ行って買ってきたものです。」

 若いお嫁さん  「お香の匂いは、なんでこんなに臭いんやろ。鼻の奥に匂いが染みついてしまうわ。匂いのしないお香ってないの?」

 若いお嫁さんのご主人  「ほんとに臭いな! なんでお香を焚くのかな? こんなもの要らんやろ。」
 
 私  「お香・お光り・お花・お仏飯は、お仏壇をお飾りする4点セットです。だから、お香は、香りがあるからいいのです。いい香りで荘厳するところに意味があります。香りのないお香は意味がありません。」

 若い2人  「そんなものなんですか〜!」

 奥さん  「ねえ。使った後のろうそくは、もったいないよね。まだ長く残っているわよ。」

 ご主人  「ろうそくは、一回きりだよ。」

 奥さん  「ふ〜ん。」

 
初七日のお参りは、予期せぬ宗教教育の場となりました。家族全員で家の行事を営むことの意味は、こんなところにあるのだと実感しました。家の習慣や先祖の知恵が伝えられるためには、家族全員の参加がなければできません。私は、この家は、代々伝えていく条件が備わっているなと思いました。
 それにしても、報恩講でお参りしたお宅の中には、お参りはお年寄りだけという場合があります。仏事は、家族全員で営むことの習慣化をうながす僧侶側の努力不足を感じています。

10.ある問答 

 ある法座の控え室でのことです。その部屋には、私を含めて僧3名と在家の方2名がいました。在家の方で高齢の女性の方が一挙手ごとに念仏を称えていました。その女性とA住職との会話です。

 A住職    「おばば、あんたはどこの者や?」

 女性     「おれは、矢駄に住んでいる者ですがね。」

 A住職    「なに、矢田?」

 女性     「ちがいますよ。矢駄ですよ。」

 A住職    「ほ〜、そうか。矢駄か。ところで、何という名前だ?」

 女性     「森というものです。私は歳をとってしまって、体がいうことを利いてくれません。それで、皆に迷惑ばかりかけて暮らしています。業というものは、なかなか無くすることができません。死ぬまで業と付き合わんならんと思うております。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 A住職    「それは信心が足りん。信心が足りんからや。」

 女性     「そうですかね?」

 A住職    「そうだ。信心が足りん。もっと信心というものを勉強せないかん。」

 女性     「おれは、そうは思わんけどね?」
         「業があるから、業のおかげで、念仏を喜べるようになったと思うとるのですが?」

 A住職    「ちがう。信心が足りん。信心が足りんからや。信心が足りんで〜。」

 女性     「それなら、ご院さん。おらも言わせてもらうけど、あんたはおらといっしょや。いつも足りん、足りんと言って、どれだけ有っても足りんを繰り返して生きて居る業腹なおらといっしょや。」

 A住職    「……」

 女性     「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 この問答は、どう見てもA住職の負けです。「業」=「煩悩」と考えれば、A住職の信仰は「不断煩悩得涅槃」という親鸞聖人の教えにも違反することになります。
 私は、この問答を聞いて、自分を反省させられました。自分は、平生の法話の中で、「不断煩悩得涅槃」という教えをどう説いているか、門徒の方に分かりやすいように説いているか、正しく教えを伝えているかなどを考えさせられたことであります。
 

 9.ある質問

 ある人曰く 「ご院主さん。私の親戚で、元は浄土真宗だったんだけれど、新興宗教に替わった家がありますがや。最近、その家のお婆さんが亡くなって、墓にお骨を納めることになったがやけど、墓は先祖代々の南無阿弥陀仏の墓で、そこへ入れたんですがね。南無阿弥陀仏の墓に新興宗教の人のお骨を入れても大丈夫なもんですかね?」

 私      「そんな混ぜこぜにする話は初めて聞きました。色んなことがあるものですね。」

 ある人    「ご院主さん。最近、可愛がっていた犬や猫の葬式をして、その骨を先祖代々の墓に納めたという話も聞きますが、それもどんなもんですかね?」

 私      「う〜む。これは難題ですね。」

 ある人    「そこのところは、念仏宗ではどうなっとるんですか?」

 私      「私たちの教えでは、他宗の人のお骨を南無阿弥陀仏の墓に入れてよいとか、動物の骨を人間と同じ墓に入れてもよいとかなどについては、はっきりした判断はないですね。」

 ある人    「ほんなら、どうしたらよいのですかね?」

 私      「う〜む。」……「う〜む。」……

 ある人    「どんなもんですか?」

 私      「はい。あのね。念仏宗の人ではないけどね、道元という人が『草木国土これ心なり。心なるが故に衆生なり。衆生なるが故に仏性あり。』とおっしゃっとるのです。だから、仏教の教えからすれば、他宗の人も動物も皆んな平等なんです。そうすると、納骨はいっしょでもかまわんということになりますが、我々の立場からすれば、何でもかんでも一緒という考えは、すんなり受け入れられんのですね。ですからね、お墓は別々にして、区別はするけど差別はしないというのがもっとも無難でしょうな。」
   

 8.ある質問

 
ある人曰く  「ご院主さん。この間あるお寺へお参りに行ったら、ずいぶん手前から旗をつるしてあって、それをたどって行くとお寺に到着するというふうにしてあったが、あれは何の旗かね?」

 
  「どんな旗でしたかね?」

 
ある人  「いろんな色を縫い合わせてあって、しかも縦横に縫ってあったがね?」

 
  「あぁ、仏旗のことですね。仏旗をそんなふうに利用するというのは良いアイデアだと思います。」

 
ある人  「なぜ、いろんな色を使って、縦横に縫ってあるのかね?」

 
  「昔の僧の衣や袈裟は、ボロ切れを布施してもらって作りました。布施されるボロ切れは、同色のものばかりとは限りません。そして形もさまざまでしたから、それらを縫い合わせて作った衣や袈裟は、いろんな色が混じり、縫い目の方向も定まりませんでした。そのことを象徴的に表したのが仏旗なのです。そして、その衣のことを糞雑衣と言いました。」

 
ある人  「なるほど、そういうわけがあったのか。」「ところで、先日、手つぎ寺から袈裟を寄付してくれと言われたので引き受けたが、12万円だと 言われた。ご院主さんの糞雑衣の話とずいぶん話のケタがちがうねぇ。」

 
  「すみません。時代とともに、僧の衣装は高価になりました。私たちの原点を忘れないで精進したいと思います。」

 
ある人  「うん。分かった。頑張ってくださいね。」

 
私の感想  ”ヤレヤレ!”      

 7.ある質問

 
ある人曰く  「この間、お寺から葉書が来て、『引上会にお参りに来てください。と書いてあったが、『引上会』は何と読むのか?」

 
  「『いんじょうえ』と読みますが?」

 
ある人  「どういう意味か?」

 
  「『報恩講』のことです。私たち真宗の門徒は、親鸞聖人の教えに導かれてお念仏の日暮らしをさせていだたいています。その親鸞聖人に感謝するお参りです。親鸞聖人は、11月28日に亡くなられました。そこで、聖人のご命日である11月28日を最終日として報恩講をお勤めするのが本来なのですが、それを前もってお勤めすることが行われるようになったことから『引上会』と言うようになりました。」

 
ある人  「なんや、そんながか! 知らなんだ。そやけど、前もってお勤めするといういい加減なものならお参りしなくても良いのか?」

 
  「そんなわけには参りません。『報恩講』は、私たち真宗門徒にとって、最も大切な年中行事です。

 
ある人  「そうか、お参りせなならんか! それなら、家でするあれは何だ。」

 
  「家で行う『報恩講』も同じ意味です。

 
ある人  「それなら、同じ事を2度もする必要はないだろうに。」

 
  「そんなわけには行きません。家で行う『報恩講』には、ご先祖への感謝という意味もあるでしょう。

 
ある人  「そうか、家の『報恩講』もせなならんか!

 
  「ところで、あんたはお参りが嫌いなのか?」

 
ある人  「そうなんだよ。……」

 
私の感想  ”難しい世の中になったものだなあ!”

 6.ある質問

 
報恩講にお参りさせていただいたお宅の奥さんから。(奥さんは、最近、ご主人を亡くされました。仏壇横の床の間には竜に乗った菩薩の掛け軸が掛けられてあります。私には、何という菩薩さまなのか分かりませんでした。)

 奥さん

 「主人の3回忌が終わるまで、何か仏さまの絵を掛けて置きたいと思って掛けたのですが、何という仏さまですか?」

 私

 「分かりません。軸が入っていた箱に何か書いてありませんか?」

(奥さんが箱を持って来られました。箱書きには、[妙音菩薩]となっています。)

 私

 「妙音菩薩とは、聞いたことがありません。帰って調べてみます。」

(自坊へ帰った私は調べました。ありました。「法華経」に説かれてあります。妙音菩薩は、衆生済度のために、この娑婆界に降りて来られる菩薩さまであると説かれてあります。そして、私は、奥さんに手紙を書いて送りました。亡くなったご主人は、かつて会社を経営しておられ、たくさんの従業員が働いていました。)

手紙の内容(大意)

 「お宅の掛け軸の仏さまは、妙音菩薩とおっしゃる仏さまで、竜に乗って娑婆界に降りてこられるようすを描いてあります。会社を経営されて、たくさんの従業員を雇われていたご主人は、いわば妙音菩薩さまの衆生済度の働きをされたと同じです。ご主人の忌日に妙音菩薩さまをお掛けすることは、まことにふさわしいことだと思います。」

後日、奥さんから電話をいただき、妙音菩薩さまの掛け軸を大切にしますというお礼の内容でした。私は、一つの責任を果たしたような気持ちになりましたが、それにしても不勉強を痛感させられます。狭い範囲のことしか知らない寡聞を反省させられたことであります。  合掌!

 1.ある質問

 お盆も近づいたある日、こんな質問を受けました。

中年のあるお母さん

「お盆には先祖の魂が家に帰ってくると言うではないか。そうなれば、墓参りする必要がない。だって、墓は魂が全部家に帰ったから抜け殻ではないか? そんな墓にお参りすることはナンセンスだ。」

私の答え

「何と理屈なことを言う人だ。………………………魂という考えは、私たちが先祖を偲ぶよすがとするための方便ですがね。お盆には、ご先祖さまのご恩を偲びつつ、お墓とお仏壇の両方にお参りしてください。家族みなさんでおでかけください、はい。」

 2.ある質問

 報恩講にお参りさせていただいたお宅で、若いお嫁さんが尋ねてきました。

お嫁さん 「今日は、何のお参りですか?」
 私    「今日は、親鸞聖人のご恩に感謝する感謝デーですよ。」
お嫁さん 「わ〜感謝デーやて。パチンコ屋さんみたい。」

私の答え

「………………………。まあ、今のところ、そういう理解でいいですよ。おいおいと勉強して行きましょう。」

 3.ある質問

 
ある飲み屋さんでの会話。隣のお客さんが私に話しかけてきました。私が僧侶であることを知った上での話です。

お客さん

「友達という者は、2人でよい。たくさん作ると付き合いが大変だ。この意味から言うと、親鸞聖人の考えは好かん。誰でも彼でも友達にしようという考えだ。あんた、どう思う?」

私の答え

「ムムムムムムム。そういう見方もあるんですねぇ。 ムニャムニャ………。」

(心の中で)

    そうではないと思うけど、うまく答えられんなぁ

 4.ある質問

 49日法要の後でおときをいただいているとき。お参りされたあるお父さんからの質問。

あるお父さん

「これまで三塗の川には、鯉や鮒がいっぱい棲んでいると思っていた。その川を渡るとき、魚を捕まえる楽しみのようなものをイメージしていたが、そうではないと聞いた。三塗の川は、欲望の たとえだいうがそうですかいね?」

私の答え

「ウム。三塗とは、地獄・餓鬼・畜生のことだから、三塗の川を渡るということは、そのような生き方を離れて新しい自分に目覚めるということを意味するのでしょう。」

(心の中で)

     それにしても、色んなことを考える人がいるもんだなぁ。

 5.ある質問

 
報恩講にお参りさせていただいたお宅のお母さんからの質問

「ご和讃の中に”……三塗の黒闇ひらくなり……”とあるが、三塗とは三塗の川のことですか?」 

私の答え


「そうですよ。どうしてですか?」

お母さん

「そうですか。私は塗るという字が書いてあるので、三回塗るとは三塗の川とどう関係するのかしないのか変だなと思ったものですから。」


私の答え

「三塗の川とは、お母さんの考えておられる三塗の川のことですが、三塗とは、地獄道・餓鬼道・畜生道のことを言います。三悪道とも言いますが、この三悪道を超えることを三塗の川を渡ると説いてもいるのです。(塗)という漢字には、(まみれる)とか(よごれる)という意味があります。したがって、地獄・餓鬼・畜生道に堕ちるということは、泥にまみれて生きるようなものであるところから、三塗と言うのです。この三塗を超えるためには、仏さまの光に会わねばなりません。
だから、”……三塗の黒闇ひらくなり……”とは、仏さまの光に会うて、覚りを開き救われていくさまを述べたものです。

(心の中で)
  このお母さんは、最初、何をかんがえられたのかな?壁か何かを塗ることをイメージされたのか、化粧を三回塗るというようなイメージでも持たれたのかな?
  いずれにしても、仏法に関心を持つということは悪いことではない。その関心の芽を伸ばすのが我々の仕事だから。