9月のおたより

2023(令和5)年9月

 【 お寺の行事 】

    11月12日(日) 住職継承記念法要
                兼 お七昼夜
                かかお講

 〈彼岸花〉

 秋分のころに咲く彼岸花は、仏典では「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」と書かれます。
 『法華経』には、お釈迦さまが説法したら、天の神々が感動して、4種類の花を雨ふらせたと説かれます。
 4種の中のひとつが曼珠沙華です。 曼珠沙華
 このことから、曼珠沙華は天上の花とも言われます。
 天上から雨ふって地上に咲く曼珠沙華は、お彼岸のころに咲くことから、「彼岸花」とも言われるようになりました。
 曼珠沙華は、天上の世界から人間世界に遣わされた花です。
 お彼岸のころに咲き出し、彼岸過ぎればしぼんで、短い花の季節を終えます。
 その姿は、

     遠くの先祖を想って欲しい!

 天上のメッセージを伝えているように見えます。

【 弔いのかたち 】

 自分で作って食べる最中(もなか)があります。

 皮とあんこが別々になっていて、皮にあんこを詰めて蓋をして食べる最中です。
 食べるまでに手間がかかります。
 おそらく、皮のパリパリの食感を味わってもらうために開発された商品と思われます。

 手間のかかる最中といえば、「雲もなか」という最中を、金沢の業者が売り出しています。
 「雲もなか」も、自分で作って食べる最中です。
 「雲もなか」は、皮のパリパリ感よりも、手間をかけて作って食べることを目的として開発されました。
 「雲」という名前を付けたのは、空を想像してもらうためです。
 空といえば、上っていく。
 上っていくといえば、亡くなった人が天上の世界に帰っていく。
 天上には、仏さまや神さま、私たちのご先祖が待っています。
 そんなことをイメージしてもらうために「雲」にしたそうです。
 「雲」ですから、最中の皮の色は白です。

 「雲もなか」は、葬式の後の会食のときや、法事のとき、お盆など、亡き人やご先祖の仏事や行事のあとに食べます。
 お参りされた人たちは、亡き人やご先祖の想い出、在りし日の姿を偲びながら、思いを込めて作ります。
 そして、食べます。
 「雲もなか」は、故人を偲びながら自分で作って食べることに意味があります。
 「雲もなか」を食べれば、故人と自分のへだたりがなくなり、故人を、今まで以上に身近に感じるようになります。
 そして、故人との心のつながりが深まり心が癒やされます。

 現代は、死を遠ざけようとする傾向にあります。
 遠ざければ遠ざけるほど、死の問題は解決しません。
 遠ざけるより、身近に引き寄せる。
 かつて歌手の水前寺清子さんが歌った ♪おしてもだめならひいてみな♪ と同じです。
 遠ざけて解決しなかった問題が、近づけてみたら解決した。

 「雲もなか」は、故人との間を近づける新しい供養の形と言えます。

 親鸞聖人は、

    それがし閉眼せば、加茂川にいれて魚にあたふべし

と遺言したと伝えられます。
 この遺言は、葬式も要らない、供養もいらないという意味に受け取れますが、弟子達は親鸞聖人の葬式をして墓も建てました。
 現在の東本願寺が、親鸞聖人を祀る廟所です。
 また、供養は、聖人没後760年、今も絶えることなく続いています。
 たとえ、本人が望んだとしても、死んだら終わりということにはしません。
 人々は、昔から亡き人を弔ってきました。
 弔いの形は、人それぞれです。

 かつて、福井県の別院のお朝事にお参りしたことがあります。
 年配の女の人がお参りして来ました。
 本尊の阿弥陀仏の前に座って手を合わすなり、

     じいちゃん、おはよう!

と言いました。
 これも弔いの形です。                 合掌




2022(令和4)9月
 【 お寺の行事 】


      11月13日(日) お七昼夜 * かかお講

                   当番 お七昼夜-福島そうざしんたく組
                       かかお講-谷口組


     〈季節の話題〉

        9月23日は、秋のお彼岸の中日です。
         「彼岸」とは、あの世という意味です。
        また、「中日」とは真ん中の日という意味で、中日の前後3日間を加えた1週間がお彼岸の期間となります。
        ちなみに、秋のお彼岸のお供えは、「おはぎ」です。 

【 敬老の日 】

 「国民の祝日に関する法律」があります。

 その第二条には、16の「国民の祝日」を定めています。
 たとえば、

     ・元日 1月1日 年のはじめを祝う。

     ・成人の日 1月の第2月曜日
            おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

などとあり、9月には「敬老の日」があります。

     ・敬老の日 9月の第3月曜日  多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。

と決められています。

 あるお寺のお婆ちゃんの話です。

 お婆ちゃんは、だいぶん認知症が進んで、足元もおぼつかなくなってきました。

 ある天気の良い日、お婆ちゃんが草履を履いて外に出ようとしています。
 玄関には段差があり、お婆ちゃんは足下がヨロヨロとした危なっかしいようすです。 
 それを見た息子の住職さんが、

    住職 婆ちゃん、何しとるんや!

    老母 何しとるって、草むしりに行くんや!

    住職 そんなこと分かっとる。外に出んでええ。草むしりに行かんでええ!
        この前も、外に出ようとして転んでケガしたやないか。
        外に出んといてくれ!
   
 お婆ちゃんは、恨めしそうな顔をして、部屋へ帰って行きました。

 またの日、門徒の方がお寺に来られました。
お婆ちゃんは、台所へ行って、カチャカチャやっています。
 それを見た住職さんが、

    住職 婆ちゃん、何やっとるんや!

    老母 何やっとるって、お茶沸かしとるんや!

    住職 そんなこと分かっとる。ガスコンロ触るな!
        この前もガス付けっぱなしにして危なかったやろ。
        頼むから、ガスコンロ触らんといてくれ!

 お婆ちゃんは、我が息子のことばで、また恨めしそうな顔をして部屋へ帰って行きました。 

 そんなことが度々あって、敬老の日になりました。
 家族みんなでご飯を食べているとき、住職さんが、

    住職 婆ちゃん!
        今日は、敬老の日や。何か欲しいものないか?
        何でも買うてやるぞ!

    老母 私ゃ、この歳になって欲しいものは何もない。
        たったひとつだけ、私を叱らんといてくれんけ!

 この一言にみんなびっくり。
 そして、

      あっ、そうやったか!
      私ら言い過ぎたか!

 今まで、お婆ちゃんを叱っていたのは、お婆ちゃんにケガされたらこちらが面倒だからです。
 病院へ連れて行かねばなりません。
 入院となったら、家族に余計な負担がかかることになります。
 我が身の都合ばかり考えていました。

 そのことに、お婆ちゃんの、

      私を叱らんといてくれんけ!

の一言で、お婆ちゃんの気持ちを考えなかった自分たちに気づかされたのです。

 お年寄りに何もさせないことが「敬老」ではありません。
 といっても、どこまでさせてあげれば良いのか、判断が難しいところです。
 「老人を敬愛し、長寿を祝う」ことは、簡単なことではないのです。
                                                        合掌 


2021(令和3)年9月

 【 お寺の行事 】

   歓喜光院殿御崇敬にかかわる日程

     10月28日(木)-御崇敬準備
     10月29日(金)-午前 御影お迎え  午後 1時30分お始まり
        30日(土)-午後 1時30分お始まり
        31日(日)-午後 1時30分お始まり
     11月 1日(月)-午前 御影お見送り 午後 後片付

【 貧女の一毛 】

 東本願寺の廊下には、女の人の髪の毛で作った毛綱が展示されています。
 長さ70m、太さ30㎝、重さ400㎏の巨大なロープです。
 この縄は、明治時代に作られました。
 鋼鉄製のワイヤーがなかった時代、重い木材を運んだり、大きな柱や梁などを吊り上げる作業は困難な仕事でした。
 藁縄では、すぐ切れてしまいます。
 そこで、毛綱が発案されました。

 その発端は、新潟県にあります。

 東本願寺は、これまで4回焼けて4回建て直されました。

 最初に焼けたのは、天明八(1788)年です。
 再建工事には、全国の門徒が動員されました。 
 能登の門徒たちも、鍋、釜、食料持参で、ある者は陸路をてくてく歩き、ある者は海路を利用して京に馳せ上り、全国から集まった門徒たちと本願寺の周りに小屋を建て、共同生活しながら再建工事を手伝いました。
 同時に、再建に必要な金銭や物資の寄進も全国に呼びかけられました。

 新潟県三条御房の輪番が、寄付を集めるため、配下を回っているとき、畑を耕しているまことに粗末ななりの一人の農婦と出会いました。
輪番の姿を見た農婦は、

   農婦  このたびの火事で本願寺ご再建と聞いて、日頃、念仏を喜ばせていただいている身として、
       せめて何なりともご報謝をと思うものの、我が身をしのぐに精一杯で、蓄えとて何もございません。
       手元不如意なこの身が、なんとも悲しいことでございます!

と言ったかと思うと、鍬を捨て、近くの農家からハサミを借りてきて、輪番の前で、長い黒髪を根元から惜しげもなく、「バッサリ!」切り落としました。

   農婦  我が物としては、こればかりしかございません。
       髪の毛は、上方ではお金になると聞いておりますれば、何とぞ、この髪を売って、
       値をご再建の懇志となしくださるようお願い申し上げます。

 農婦は、切り取った髪の毛を差し出しました。
 輪番は、「何とも奇特なこころざしかな!」と感じ入り、「このことを伝え聞いた人たちは、それぞれに思うこともあるだろう!」と思い、三条御房へ持ち帰りました。

 髪の毛寄進の話は、たちまち近郷近在の女の人の間に伝わりました。
 噂話には、とかく尾ひれが付きます。
 
    東本願寺では、髪の毛の寄進を募っている!

という尾ひれまで付いた噂が広がったことで、真に受けた女たちは、「われも!われも!」と先を争うように髪の毛を切って寄進しました。

 驚いたのは輪番です。
 そして、困りました。

 当時、東本願寺は髪の毛の寄進を呼びかけていませんでした。

 女の命と大切にする黒髪を、日頃のご報謝にと、せっかく寄進してくれた物を、そのままにしておくわけにもいかず、東本願寺では必要ない物であるけれども、一応、ご門主さまに見ていただこうという ことになって、京へ運びました。

 時の門主は、乗如上人(歓喜光院さま)です。
 上人に、寄進の髪の毛をお見せすると、

    上人   越後の国は、親鸞聖人ゆかりの地である。
        今も尚、門徒たちに教えが行き届いているとみえて、
        こちらから言い出したことでもないのに、まことに感心なことだ! 

と感激され喜ばれました。
 このことで、今度は、上人にお仕えしている役人たちが困りました。
 上人が喜ばれた寄進の髪の毛を、必要ないからといって放り出しておくわけにはいきません。
 役人たちは、相談しました。
 一人が、

    役人   そうだ!
         髪の毛を編んで縄にし、重い物を引き上げる時に使えば役に立つ!
 
 この提案で衆議一決。
 
 この知らせが全国に知らされると、各地で毛綱が作られました。
 明治の再建時には、諸国から53筋の毛綱の寄進がありました。

 こうして、新潟県三条の貧しい女の人の寄進がきっかけとなって、毛綱が工事現場で使われることになり、再建工事が一段とはかどることになりました。

 天明の火事による本願寺再建は、13年かかりました。
 すべての工事が終わって、門徒たちが、それぞれの国元へ帰ることになったとき、時の門主達如上人は、前門主乗如上人の御影を門徒たちに授けました。
 御影は、36幅、門徒たちに授与されました。
 御影をもらって帰った各国門徒は、翌年から、歓喜光院殿御崇敬を勤めました。
 能登で勤まる御崇敬は、今に至るまで210年間続いています。               合掌!


2020(令和2)年9月

【 お寺の行事 】

   期日 11月15日(日) 極應寺前住職十三回忌法要
                かかお講(当番 福島そうざ組)
                お七昼夜(当番 道辻組)

         上記の三つの仏事を併修します。

   日程 午前10時  読経及びお勤め
       正午     おとき
 
                  お誘い合わせてお参り下さい。


【 手 】

 病院の待合室で診察を待っていると、二人の高齢の女性が話し合っています。
 一人が、節くれ立った手を見せて、
 
    甲  あんた、この指見まっしま。
        節ゃ太うなって指輪抜けんがになってしもうたがいね!

    乙  ほんとやね!
        ほんなら、あんた。それ、一緒にあっち持って行くまっし!

    甲  そうやね。
        そうしょうかね!

    甲乙 アハハハハー

 節くれ立った手は、女性の人生そのものを物語っているように見えました。

 かつて、味噌のテレビコマーシャルで、

      ♪ママの手は魔法の手
       何でもできちゃう不思議な手
       どうして上手にできるのかな
       ママ ママ
       ママの手は魔法の手

という歌がありました。

 母の手は、何でもします。
 料理、裁縫、編み物、お菓子…。
 さらに、掃除、洗濯、あと片付け…。
 子どもが転んで泣いていてれば、抱き上げて、

    痛いの痛いの飛んでけ!

と、痛いところをさすってやると、子どもは痛みを忘れました。
 お母さんの手は、子どもの痛みまで治します。

 まさに、母の手は魔法の手です。

 NHKのアナウンサーとして活躍した山根基世さんが、手についての短文で、

       「何でもする手」     山根基世

    二十五年前、まだ栃木に女子刑務所があった頃、そこに入っている女囚にインタビューしたことがある。
    取材に応じてくれた五人の内の一人は、三歳のわが娘を殺めたという二十七歳の女性だった。
    だが、その人は何も話さなかった。
    どんな質問にも「ハイ」「イイエ」としか答えない。
    これでは番組にならないと焦った私は、コトの経緯をひとつひとつ具体的に聞いていくしかないと覚悟を決めた。

      山根  事件は何年前ですか?
       女性  三年前です。
      山根  季節は? 
       女    ピンクのセーター着てました。春でした。
      山    時刻は?
      女    夕方です。
      山   そのとき、お子さんは何をしてらしたんですか? 
      女   電話遊びをしてました。
      山   で、どうやって?
      女   首を…
      山   首をどう…?

    と聞くと、彼女は一瞬口ごもったあと、

      女  手で!

    と答えた。

     その瞬間、細く温かい幼児の首の柔らかい感触が、私 の手にも生々しく生じた。
     優しく愛撫したこともあるはずのその手で、わが娘の 首を…、手は何でもする。

と書いています。

 『仏説無量寿経』には、修行中の法蔵菩薩の手の中から、

    …その手より常に無尽の宝を出す。

 数限りない仏さまが、法蔵菩薩の手の中から、次から次と生まれ出て来たと説かれてあります。
 手は、仏さまを生みだすことも出来るのです。
                                    合掌!
 

令和元年9月

 【 お寺の行事 】

     
9月28日(土) 親鸞聖人ご命日

    10月28日(月) 親鸞聖人ご命日                

    11月10日(日) かかお講 お七昼夜

          お誘い合わせてお参り下さい。

【 怒り 】

 8月は、連日、テレビで、あおり運転の男が後続車を止めさせ、鬼のような形相で近づき、運転する男性を殴りつけるニュースが流れました。
 数日後、警察に逮捕された男は、首をガックリうなだれ、激高したときの勢いは、まったくありません。
 あの勢いは、いったいどこへ行ったのでしょう。
 警察に連れて行かれるとき、男は何を思っていたのでしょうか。

 お釈迦さまは、

   人は生まれたときには、実に口の中に斧が生え  ている。
   愚者は、その斧によって自分を断つのである。           『ブッダのことば』ヨリ

と弟子たちを戒めました。

 私たちは、口の中の斧ばかりでなく、虎まで飼っているようです。
 虎は、何もなければおとなしくしていますが、一旦、暴れ出すと、繋いである鎖を引きちぎり暴走します。
 飼い主は、どうすることもできません。

 これが、怒りです。

 『沙石集』に、厳融坊というお坊さんの話が載っています。

 厳融坊は、すぐれた学者でした。
 評判を聞いて諸国から弟子がたくさん集まってきます。
 厳融坊には、ひとつ欠点がありました。
 短気で怒りっぽいことです。
 ちょっとしたことでも腹を立て、弟子を叱りつけます。

 あるとき、厳融坊の妹の子どもが亡くなることがありました。
 妹は、悲しみました。
 何しろ、子どもが親に先立つ逆縁に会ったのですから、親の悲しみは並大抵のことではありません。
 しかし、兄の厳融坊は弔いに行きませんでした。
 妹は、兄が弔いに来ないので、

   妹  何と情けないことです!
      私がこれほど悲しんでいるのに、兄が弔いに来ないとは!
      たくさんの人がお弔いに来てくれたのに!

と愚痴を言ったところ、これを聞いた厳融坊の弟子が、師匠に、

   弟子  お弔いに行かれたら如何でしょうか?

と言ったところ、厳融坊はたちまち腹を立て、

   厳融坊 なにっ!
        あいつは最低の妹だ!
        坊主の妹というものは、在家の人とは違う。
        生老病死の娑婆世界に生まれて、愛別離苦の悲しみがないとでも思      っているのか?
        どれ、行って、ひとつ意見してやろう!

と妹を訪ねました。

   厳融坊 妹よ!
        お前は、坊主の妹でありながら、この世は生者必滅・会者定離、さらに老少不定の境なることを知らないのか?
        子が親に先立つ例は、いくらでもある。
        そんなに悲しむな!
        お前は、つくづく情けないやつだ!

   妹   はい、兄さん!
       その理は知っておりますが、何といっても、我が身を分けた可愛い我が子。道理も何も、ただただ悲しいばかりでございます!

   厳融坊 ええい!
        道理を知っておりながら、道理のごとくならんとは、何とも愚かなやつだ!

とまで言われた妹は、返すことばがなくなってうつむいてしまいました。
 しばらくして、涙を拭って顔を上げ、

   妹   では、兄さん!
        腹を立てることは良いことでしょうか?
        罪にはなりませんか?

   厳融坊 腹を立てることは、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩のひとつ。
        恐ろしい罪だ!

   妹   ならば、兄さん!
       兄さんは、その道理を知っておりながら、兄さんの腹の立てようがいかにもひどい!

   厳融坊 …!

 妹のことばに、今度は厳融坊がことばにつまり、返すことばがなくなってしまいました。

   厳融坊 ええい! そんなら、好きなだけ泣け!

と、また腹を立てて帰って行ったという話です。

 兄も兄なら、妹も妹。
 負けじと返したことばが、消えかけた火に油を注ぐことになってしまいました。

 親鸞聖人は、

   …悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり…

とも言われています。
 私たちは、虎ばかりでなく、ヘビやサソリまで飼っています。
 私たちの中は、あたかも動物園状態です。             合掌

平成30年9月

 【 お寺の行事 】

     10月28日(日) お講

     11月11日(日) かかお講 当番 福島(そうざしんたく)組
               お七昼夜 当番 土肥組

                 お誘い合わせてお参り下さい。

【 心静か! 】

 口から6体の仏さまを吐き出している姿で知られる空也上人は、念仏を称えながら諸国を遊行しました。
 諸国に旅する前は、世俗を離れた山中に住んで、たくさんの弟子をかかえていました。
 その当時、上人は、

   ああ、騒がしいことだ!

と言うので、弟子たちは、騒がないように気を付けていました。
 いくら騒がないようにしていても、上人は、

   ああ、騒がしいことだ!

と言います。
 このようなことが、たびたびあったあと、上人は、かき消すようにいなくなり、行方不明になってしまいました。
 あちこち心当たりを捜しましたが、見つからないまま、月日が経ちました。
 残った弟子たちは、

   師匠がいないところに、いつまでもいるわけにはいかない!

と去って行きました。

 あるとき、一人の弟子が、市場へ出かけたところ、市のはずれに、菰をめぐらした粗末な小屋があります。
 小屋の前には、鉢がひとつ置いてあり、食べ物の端切れなどが入っています。
 中に人がいるようなので覗いてみると、なんと、行方不明になっている我が師匠ではありませんか。

  弟子  何ともはや、情けないことです!
       お師匠さまが、「騒がしい!」とおっしゃって、姿を隠されましたが、まさか、騒々しい世間の中でお暮らしとは思いもよりませんでした!
       いったい、どうなさったのですか?

  空也  お前は、そう言うが、山中では、騒がしかったが、ここは、とてものどかだ!
       心も澄んで晴れ晴れと暮らしている。
       なんとなれば、山中では、お前たち弟子を育てるために、あれやこれやと思い巡らすことが多かったから、心の中が騒がしかった。
       ここは、鉢を外に出しておけば、誰かが食い残しなんかを入れてくれるから、食べ物に不自由しないゆえ、余計な煩いもない。
       世の人のありさまを見ていると、ある者は、頭に白いものをいただく歳になっても、生活に追われている者もいる。
       また、生きるために、おべんちゃらやお世辞、言いたくもない嘘をついて、世を渡る者もいる。
       後生の一大事を忘れて生きる姿は、私を、いよいよ仏さまの世界にみちびいてくれる方便となっている。
       だから、ここは、とてもよいところだ!
   
  弟子  まことに仰せのとおりでございます!
       いくら弟子がたくさんいましても、お師匠さまが命終わられたあと、誰一人、一緒に付いて行く者はおりません。
       まことに、何事も、名誉などのことは捨て去り、心しずかに生きることこそが肝要とお諭しいただきました!

 弟子は涙を流して喜び、二人の問答を聞いていた人たちも、「よよ!」と泣いたということです。

 その後、空也上人は、鉦を叩きながら念仏を称えて諸国を遊行したことで、「阿弥陀聖」とか「市聖(いちひじり)」よばれるようになり、日本に念仏の教えが広まるきっかけとなりました。

     心騒がしければ、山中に住めども静かならず。
     心静かなれば、世間に住むとものどかなり。


 これが、空也上人の教えです。

【 菩薩さま? 】
         
 一躍、時の人となった大分県の尾畠春夫(78)さん。
 「スーパーボランティア」と呼ばれています。

 山口県の大島町で行方不明になった二歳の男児の捜索に自主参加して、第一発見者となりました。
 尾畠さんが本格的にボランティアに取り組むようになったのは、65歳で魚屋を閉めてからです。
 全国の被災地に出かけて、がれきの撤去作業を手伝ったり、地元では、住んでいる地区の通学路の草刈りや由布岳の山道整備、案内板の設置など、率先してボランティア活動に取り組んだことで、表彰されたこともあります。
 活動費は、すべて年金でまかなっているそうです。
 それほどにしてまでボランティアに取り組ようになった、そのわけは、

   学歴も何もない自分がここまでやってこられた!
   社会に恩返しがしたい!

と思ったからだと語ります。

 仏教では、困っている人を助ける存在を「菩薩」と言います。
 菩薩には、観音菩薩、勢至菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など、さまざまな菩薩さまがおられます。
 中でも、観音菩薩は、

   種々の形をもって、もろもろの国土に遊び、衆生をすくうなり。

と、お経に説かれてあります。
 観音菩薩は、衆生の嘆きの声を聞いて、その人に必要な姿となって、どこにでも現れて、苦難の衆生を救って下さる菩薩さまです。
 ひょっとすれば、尾畠春夫さんは、頭に赤いねじり手ぬぐいをしてボランティアの姿となって現れてくださった観音菩薩の形なのかもしれません。
                                                                                 合掌


平成29年9月

 【 お寺の行事 】

      10月 2日(月) おてらのグランドゴルフ大会 
                     於:土田シルバーハウスGG場
             ※老若男女問わず、どなたでも参加できます。

      10月       お講 当番 福島(そうざしんたく)組  

            お誘い合わせてお参り下さい。

【 注文を間違える料理店 】

 現在、日本には、500万人ほどの認知症の人がいると言われています。
 この数字は、これから迎える超高齢化社会では、もっと増えると予想されます。
 認知症を他人事と言っておれない時代が、まもなくやって来ます。

   認知症の人と、どう向き合うか?

 日本社会は、大きな課題を抱えています。

 そこで、医療や福祉ばかりに頼っていては解決しないと考えた人が、ある試みをしました。

 「注文を間違える料理店」を開くことです。

 この料理店では、料理はプロの料理人が作ります。
 お客さんから注文を取ったり、料理を運ぶのは、認知症のおじいちゃんおばあちゃんたちです。
 お客さん役になった人が店に入ると、店員役のおじいちゃんおばあちゃんが、注文を取りに来ます。

    店員 いらっしゃいませ! 

と言って、水を2つテーブルに置きました。お客さんは1人なのです。

    店員 何にしますか?

    客   ハンバーグお願いします!

    店員 お待たせしました! 

 テーブルに置かれたのは餃子でした。
 客は、

     あのう、ハンバーグ頼んだんですけど?

と言いかけて、

    ハンバーグが餃子になったって、別にいいじゃないか!
    おいしければ、なんだっていいじゃないか!
    誰も困らないじゃないか!

と思ったそうです。
 料理店を試みた人は、「少しぐらいの間違いは受け入れてあげる!」ことが、認知症の人に接する大切な心構えではないかと感じたと語っています。
 
 現代は、少しの間違いも赦されない社会になりました。
 間違った人が、徹底的にたたかれる時代にもなりました。

 これでは、人間関係がギスギスするとともに、認知症の人と穏やかに接することができないばかりか、老若が年齢差を超えて仲良く共働したり、持っている者と持たざる者が分け隔てなく共存できる社会にはなりません。   
 
    少し、とがった心を丸くしてみる!

 これが、時代の緊張感をやわらげる機運を開くのではないでしょうか。
 人間関係は、自分ファーストでは立ち行かないのです。

【 あわれな罪人 】
 
 先日の新聞で、金沢にある鈴木大拙館の木村宣彰さんが、オーストリアのハプスブルグ家の伝統的な葬儀について書いていました。

 ハプスブルグ家は、ヨーロッパの広い範囲を支配してきた王侯です。
 その王さまの葬儀では、棺が霊廟に到着すると、霊廟の院長と、棺に付き添った宮内大臣との問答があります。
 院長は、棺に向かって尋ねます。
 大臣は、棺の中の王さまに代わって答えます。

   院長 そちは何者か?

   大臣 私は、オーストリアの皇帝です。

    院長 私は、そんな人は知らない。
       当院に入ることを願う者は、何者だ?

   大臣 私は、ヨーロッパの多くの国々を支配してきたハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフなる者です。

   院長 私は、そんな人は知らない。  
       当院に入ることを願う者は、何者だ?
 
   大臣 私は、あわれな罪人の一人です。神のご加護を願う者です。

   院長 それならば、入るがよい。

と、三度目の答えで、ようやく赦され、棺は霊廟に入ります。

 私たちは、この世でなしたものは、何ひとつ持って行けないのです。
 王さまであれ、誰であれ、地位も名誉も財産も、家族もみな置いていかねばなりません。
 このことを、蓮如上人は、

    …まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。…

と言い、さらに、

    …これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり…

と、念仏を称えることを勧めます。
 命の現実を正しく見つめる人に、念仏の門が開かれるのです。       合掌



平成28年9月

 【 お寺の行事 】

    10月    お講  土肥組

    11月13日(日) かかお講 道辻組
               お七昼夜 谷口組

         皆さん、お揃いでお参り下さい。

【 人生の通知簿 】

    暑さ寒さも彼岸まで

 暑かった今年の夏も、ようやく終わりに近づいたことを、早くも渡ってきた秋の小鳥たちが知らせてくれています。
                  
 存覚聖人が書かれた『彼岸記』によれば、雲の上の世界に、中陽院という御殿があり、御殿の庭に大きな天正樹という木が繁っているそうです。
 毎年、お彼岸になると、天正樹の下に、天の神々が集まってきて会議を開きます。
 人々の善悪を決めるためです。

 その手続きは、

 春の彼岸の頃になると、天正樹は花を咲かせます。
 その花の数は、この世の人間の数と同じです。
 ひとつひとつの花は、誰の花か決まっています。
 「善」を行っている人の花は、鮮やかに咲き、芳しい香りを放ちます。
 「悪」をはたらいている人の花は、汚らしく咲き、臭い匂いを放ちます。
 中陽院に集まった神々は、「善」の人には、その名を「金の札」に書き、「悪」の人の名は「鉄の札」に書きます。
 「金の札」は忉利天に納められ、「鉄の札」は閻魔庁に納められます。
 こうして、毎年、名前を書いた札が、どちらかに納められ、貯まっていきます。

 私たちは、私たちの知らない所で、素行が評価されているのです。
 「金の札」「鉄の札」は、いわば、人生の通知簿です。
 この通知簿は、本人に知らさることはありません。
 「天の神のみぞ知る」です。
 この通知簿によって、次の世の行き先が決まるのです。

 『彼岸記』は、私たちに、「悪」を戒め、「善」を行うことを説いています。
 こうして、お彼岸に、お寺参りやお墓参りする習慣が生まれました。

 しかし、世の中は、善人ばかりではありません。
 悪人もいます。
 
 『百座法談聞書抄』に、地獄に堕ちた悪人が、仏さまに救われた話があります。

 遠陵は、さんざん悪いことをして死にました。
 その子は、為陵という名で、書道に優れていました。
 父の遠陵は、息子の為陵に、

   お前は、決して、仏さまの名前を称えてはいけない!
   また、お前は字がうまいからといって、お経を書き写してはならない!

と遺言して死にます。
 あるとき、州の長官が、為陵が能書家であることを聞いて、訪ねてきました。

   長官 お前は、字がうまいと聞いた!
       『法華経』を書いて欲しい!

   為陵 亡き父の遺言ですから、書きません!

   長官 書かないのならば、お前に、多額の税金を課す!

 為陵は、しかたなく、しぶしぶ『法華経』の文字64字だけ書きました。
 その日の夜、為陵は、ひとつの夢を見ます。
 地獄に堕ちた父の遠陵の上に、64体の仏さまが現れ、遠陵を極楽に連れて行ったのです。
 これを見た地獄の閻魔大王は驚いて、

   閻魔 遠陵は、悪人です!
       なぜ、極楽へ連れて行くのですか!

   仏  この遠陵の息子、為陵は、『法華経』の64文字を書いた!
      その功徳によって、父遠陵を極楽に往生させるのだ!

 こうして、悪人の遠陵は、息子が積んだ功徳によって、極楽往生しました。

 仏さまは、けっして悪人を漏らすことはありません。
 仏さまのまなこは、何か善いことをしていないか、その子や親族にまで及びます。

 現代という社会は、たったひとつの失敗をあげつらって、それを徹底的にたたき、その人の行った善事まで、ないがしろにしてしまう風潮にあります。
 これでは、人と人とがつながらず、人間関係がますます崩れていきます。
 いくら悪いことばっかりでも、わずかな善事に目を向けて、目をかけてやろうとする仏さまのまなこが欠けた時代になったなと思うのです。

【 菩薩 】
 
 観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩…、いろいろな菩薩がおられます。
 菩薩は、仏になるために修行しています。
 その修行は、人々を助ける仕事をすることです。
 菩薩は、この修行を完成させて、仏になるのです。

 今、アメリカのプロ野球で活躍しているイチロー選手が、3,000本安打を達成しました。
 その記者会見で、感想を聞かれたイチロー選手は、 イチロー選手

     …チームメートたちが喜んでくれて、ファンの人たちが喜んでくれた。
     僕にとって3,000という数字よりも僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んくれることが、
     今の僕にとって何より大事なことだということを再認識した瞬間でした。

と語りました。
 「自分のすること」を「人が喜んでくれる」ことが、「自分の喜び」になる。
 これぞ、真の菩薩の姿です。
 菩薩は、お経の中だけの話ではありません。     合掌


平成27年9月


 【 お寺の行事 】



     10月  お講   当番 福島組
     
     11月  かかお講 当番 谷口組
           お七昼夜 当番 石川・谷川組

          お誘い合わせてお参りください。

【 凡夫 】
                 
 仏さまのまなこは、私たちを、「煩悩熾盛の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と見ます。
 「煩悩熾盛の凡夫」とは、あれも欲しい、 これもほしいと言いつのり、怒り腹立ち、そ ねみねたむ心絶えることなく、煩悩の炎を燃 やし続けて生きる人間のことです。
  また、「罪悪生死の凡夫」とは、食べること、 着ること、住むことにかかりはてて、仏法聴聞することもない人のことを言います。
 「凡夫」とは、取るに足りないただの人という意味です。

    仏さまは、ひどいことを言うもんだ!

と、気を悪くするかも知れません。

 「感心な犬」という、子ども向けの童話があります。

    あるところに、貧しい男が、犬を一匹飼っていました。

    子どもが増えるとともに、犬に餌をやる余裕がなくなってきました。
    犬を、誰かにやろうと思いましたが、誰ももらってくれません。
    しかたなく、遠くへ連れて行って捨てました。

    しかし、犬は利口です。
    自分の家を覚えていて、何度捨てても帰ってきました。

    そこで、川へ捨てることにしました。
    大きな川へ、犬を連れて行きました。

    ボートに乗せて、川の真ん中まで行き、犬を川の中へ投げ込みました。

    犬は、泳ぎを知っています。
    ボートへたどり着こうと、一生懸命泳ぎました。
    男は、犬がボートに近づこうとするたびに、オールで、突き放しました。

    ところが、何度か突き放しているうちに、オールに力を入れすぎたはずみで、自分も川へ落ちてしまいました。

    男は、泳げません。
    カナヅチです。
    おぼれて、ブクブク沈みそうになりました。

    そのとき、犬が、おぼれている飼い主を見て、男の服をくわえて、岸の方へ泳ぎ出しました。

    とうとう、男は、犬に助けられました。 
                                おわり

 自分の都合で無慈悲なことをした男が、その無慈悲に、命を助けられることになりました。
 男は、大いに反省したことでしょう。

 その後、犬はどうなったのでしょうか。

 男は、犬を命の恩人と思っているうちは、可愛がったことでしょう。

 しかし、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」ということわざがあるように、人間は、すぐ忘れてしまいます。

 犬は、やっぱり、いつか捨てられてしまったのではないでしょうか。

 恩を忘れた人間のことを、「罪悪生死の凡夫」と言います。

♪ はたらくくるま ♪

 こどもの歌に、「はたらくくるま」という童謡があります。

 ♪のりもの あつまれ いろんな くるま
  どんどん でてこい はたらく くるま…♪

で始まり、車の名前を、次々と歌っていきます。

   ゆうびんしゃ
   せいそうしゃ
   きゅうきゅうしゃ
   ………

 「こううんき」「たうえき」も、歌われます。

 この歌には、実に、36種類の車がでてきます。
 これらの車が、人間に代わってはたらいてくれるおかげで、便利で楽な生活が実現しています。

 歌の中に出て来ない車もあります。

   れいきゅうしゃ

 私たちは、いずれ、この車にもお世話になります。
 火葬場まで、歩いて行く人はいません。
 この車に乗せてもらって、焼いてもらうのです。

 私たちがお世話になっているのは、車ばかりではありません。
 日本には、28,000種類の仕事があるそうです。
 仕事も、いろいろです。

   ♪おしごと あつまれ いろんな しごと…♪

と歌い出したら、きりがありません。
 作業服を着たり、ヘルメットをかぶったり、旗を振ったり、機械に乗ったり、高い所へ上ったり、海に潜ったり、いろんな所で、いろんな仕事をしてくれています。

 さまざまなおかげで、私の今があります。     合掌



平成26年9月

【 お寺の行事 】

     10月  日( ) お講 当番 道辻組

     11月14日(金) かかお講 当番 谷川・石川組

         15日(土) お七昼夜 当番 土肥組
               兼前住職七回忌法要

       ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

♪ 日々 ♪

 NHKテレビに「みんなのうた」という音楽番組があります。
 かつて、吉田山田の二人が歌う♪日々♪が流されたことがあります。
 この曲が、再放送されることになりました。

    ♪ おじいさんはおばあさんと目を合わせて  あまりしゃべらない
      寄り添ってきた月日の中ただ幸せばかり  じゃなかったんだ

      分厚いガラス眼鏡 手のひらのシワ
      写真には写らない思い出 笑い出す二人

      出逢った日 恋に気づいた日
      結婚した日 分かれたいと思った日
      子供を抱いた日 手を離れた日
      溢れる涙よ これが幸せな日々

         …………

      おじいさんは からだをこわして
      おばあさんは 独り泣いた
      伝えなくちゃ 大切な気持ち
      いつも毎日本当に・・・・

        …………

 この曲を作詞した山田義孝さんは、♪いつも毎日本当に♪と書いてきて、その続きを「・・・・」としました。
 ことばの流れからいけば、「ありがとう!」か「ご苦労さん!」が続くと思われますが、そうはせず、「・・・・」としました。
 
 その理由は、長年連れ添った老夫婦には「ありがとう!」または「ご苦労さん!」では言い尽くせないものがあることを感じたからだそうです。

 山田さんは、歌のモデルとなったおばあさんを、連れ合いのおじいさんが亡くなったあと訪ねました。
 おばあさんは、大変な思いをしながらおじいさんを介護し、そして看取ったことを話しました。
 それを聞いた山田さんが、「愛していたんですね?」と尋ねたら、おばあさんはしばらく考えて、「愛していなかった!」と答えたそうです。

 「愛していなかった」のなら、嫌っていたのでしょうか。

 そうではありません。

 長年連れ添った老夫婦は、愛していたとかいないとか、そういう程度のものではないのです。
 長年連れ添い、添い遂げたという事実があり、その事実が尊いのです。
 その尊さは、ことばでは言い尽くせません。

 だから、山田さんは「・・・・」としたと語っています。

【 生きるとは 】

 滋賀県にある禅宗の尼寺・月心寺の住職(1924~2013)村瀬明道さんが対談で語ったことばです。

    司会   生きることは、どういうことだと思いますか?

    明道尼  逆らわないことです。
           しんどかったら素直に寝ることです。お腹が減ったら夜中でも食べることです。
          汗かいたら、夜中でもお風呂入ることです。
          思ったとおり生きることです。誰に遠慮もいらない。生まれてきたとき一人なんですから。
          死ぬときも一人なんです。
          なんぼ泣き言言うても、誰も助けてくれんのです。泣き言言うだけ野暮です。損です。
          言うて助かるんやったら、毎日言います。言うて助からないんだったら、言うだけ野暮です。
          生きることは、もっと尊い楽しいことです。いつ何どき三途息絶えるか分からない。
          誰が、いったい私を生かしているんでしょうね、皆さんも。
          だから、生きている間、せいいっぱい生きることです。

    司会   生きていることは楽しいことだとおっしゃいましたが?

    明道尼  ひっくり返せば苦しいことです。要は、表と裏がありますから。
           楽しいことは苦しいことです。嬉しいことは悲しいことです。
           それは、ことばの綾なんですが、全部、人間には裏と表があるのが正しいのです。
           皆さんは、陽の当たっている方を付き合うことです。
           一尺には、一尺の影があります。五寸には五寸の影があることを、よおく頭に置いて付き合うことです。
          すごく魅力のある方には、すごく嫌な面がそれだけあるでしょ。
          それが人間なんです。…

 村瀬明道さんは、9歳の時、在家からお寺にもらわれて仏門に入りました。
 辛い修行に泣き、個人的な問題で自殺を図り、交通事故で生死をさまよったりと、さんざんな人生を歩んで来られました。
 その人生が開いた心の境地が、対談の中で語られています。

 すべてに裏表があり、「すごく魅力のある方には、すごく嫌な面がそれだけある」ということばから、長崎の少女が同級生の女の子を殺した事件を思い出します。
 犯人の女の子は、成績優秀な生徒だったと伝えられています。
 そのぶん、それに相当する陰の部分を持っていて、今回の事件は、陰の部分が表に現れたことによるものだと思われます。
 成績が悪ければ悪いで、優秀であれば優秀なりに、それぞれ生きることは大変なことだなあと思いますが、明道さんは、「生きることは、もっと尊い楽しいことです」と言い切ります。
 明道さんの心は、苦楽・悲喜を超えたところにあります。

 苦楽・悲喜を超えた境地から語りかけてくる明道さんのことばに、苦悩の末に開いた自在な生きざまが感じられます。
                                                                           合掌

 


平成25年9月

【 お寺の行事 】

            10月      お講   当番 谷口組

            11月23(土) かかお講 当番 土肥組
                24(日) お七昼夜 当番 福島組

            ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

【 諦める 】

 ニューヨーク・ヤンキースのイチロー選手は、日米通算4,000安打を達成し、多くの人に祝福されました。
 イチロー選手は、試合後のインタビューで、

 米国で4,000本安打は、これまで2人しかいないが?

と聞かれ、

 いい結果を生んできたことを誇れる自分では別にないんですよね。誇れることがあるとすると、4,000本のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8,000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね。
と答えました。

 さらに、

 プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手くいかなかったことなんですよね。…もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、きっとないんだろうなあと思います。これからも失敗をいっぱい重ねていって、たまに上手く行ってという繰り返しだと思うんですよね。バッティングとは何か、野球とは何か、ということをほんの少しでも知ることが出来る瞬間というのは、きっと上手く行かなかった時間とどう自分が対峙するかによるものだと思うので、なかなか上手く行かないことと向き合うことはしんどいですけど、これからもそれを続けていくことだと思います。

とも答えました。

 仏教には「諦」という教えがあります。
 今日では、「諦」を「あきらめる」と読んで、断念する意味で使いますが、もとは「あきらかにする」という意味のことばです。
 物事の真実・事実をあきらかにすること、これが「諦」です。
 「苦諦」ということばあります。
 「苦諦」は、人生は苦であることを明らかに知るという意味です。
 人生は苦であることを明らかにする、これが仏教の第一歩です。
 そして、人生は苦であることを明らか知る、このことが、実はさとりなのです。
 私たちは、生きることは辛いこと、苦しいことと思いつつ、「いつか、苦しみから解放され楽になる日が来るだろう!」と、楽観的な思いを抱えて日々を生きています。
 しかし、そうはなりません。
 「四苦八苦」ということばもあるように、人生は苦であり、苦は生涯ついてまわります。
 生きている限り、苦から逃れることはできません。
 そのことを教えてくれるのが「苦諦」の教えです。

 イチロー選手のことばは、いつも話題にもなります。
 それは、イチロー選手が、人生は苦であることを「明らかにしている」からです。
 人生は苦であることを明らかに知っている人のことばであるがゆえに、注目されるのです。

 イチロー選手は、「諦める」ことについて、

 ちょっとややこしい言い方になりますけど、ま、諦められないんですよ。色んな事は。諦められないという自分がいる事を、諦めるという事ですかね。諦められない自分がずっとそこにいる事はしょうがないというふうに諦める。なんか、野球に関して妥協はできないので、まあもうちょっと、なんだろうな、ま、休みの日は休め、こっちの人みんな休むじゃないですか、そういう事ができないんですね、僕は。そういう自分がいる事は仕方のない事なので、そうやって諦めています。

と答えています。

 「諦められない自分を諦める」という言い方は、禅問答みたいなことばですが、イチロー選手の人生観をよく表しています。

 このように野球一筋に打ち込むイチロー選手は、記者から、「では満足することがないのか?」と問われ、

 いえいえいえ、僕、満足いっぱいしてますからね、今日だってもの凄い満足してるし、いやそれを重ねないと僕は駄目だと思うんですよね。満足したらそれで終わりだと言いますが、とても弱い人の発想ですよね。僕は満足を重ねないと次が生まれないと思っているので、もの凄いちっちゃい事でも満足するし、達成感も時には感じるし、でもそれを感じる事によって、次が生まれてくるんですよね。

と答えました。

 人生は苦であることを明らかにし、どんな小さいことにでも満足し、満足を力として生きる。
 これが、イチロー選手のさとりです。
 そして、お釈迦さまのさとりでもあるのです。

【 旅の修行者 】

 あるお婆ちゃんのことばが、『大法輪』という雑誌に載っていました。

  ”私は、この世にお招きいただいた客ですから、不平不満なんて言えませんよ。仏さまがお導きくださって、この世で修行の旅をさせていただいているのですが、受け入れてくださったこの世は、お客として迎えてくださったらしい…。だって、みなさんよくしてくださいますもの…。お客であるからには、不平不満は言えません。どんなお食事だって、お客としていただけば、すべてごちそうです。お客ですから、いつかここから出て行かねばなりません。そう思えば、今、この世に置いていただいていることが、とてもありがたい…。私は、この世のお客、この世で修行させていただいている旅の修行者なんですよ…!”                          
 こんな人生観もあるのです。
 艱難辛苦の果てにたどりついたお婆ちゃんの念仏の心が伝わることばです。

                                  合掌


平成24年9月

【 お寺の行事 】

    10月 未定    お 講   当番 谷川組

    11月10日(土) かかお講  当番 福島組

        11日(日) 助成講(午前)
                お七昼夜(午後) 当番 道辻組

        ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

【 転悪成善 】

 明治時代から大正時代にかけてのことです。

 映画「網走番外地」で有名になった網走刑務所に、「五寸釘寅吉」の異名をとった西川寅吉が20年あまり収容されたことがあります。

 寅吉には、わが子のように可愛がってくれた叔父さんがいました。

 その叔父さんが博打にはまり、負けが込んで、賭け金のカタに田畑はおろか家まで取られてしまいました。
 苦し紛れに使ったインチキがばれて、博徒たちから無茶苦茶な暴行を受けました。
 叔父さんは、その怪我がもとで看護のかいなく死んでしまいました。
 寅吉は、叔父さんのカタキを取るため、日本刀を持って、寝静まった博徒一家を襲いました。
 寅吉は、寝ている博徒たちの足を次々と切りつけ、動けないようにしておいて、家に火を点けて逃走しました。

 逮捕された寅吉は、無期懲役囚となって投獄されました。
 獄中、牢役人が、博徒の親分が死ななかったことを教えてくれました。
 叔父さんのカタキを取れなかったことを知った寅吉は、カタキ討ちを果たすため刑務所を脱獄しました。

 以後、寅吉は、刑務所を脱走しては捕まり、脱走しては捕まりを繰り返しました。
 逃亡中の虎吉は、盗みなどもしました。
 虎吉は、捕まるたびに全国の刑務所をたらい回しにされ、秋田の刑務所を脱走したとき、路上に落ちていた板の付いた五寸釘を踏み抜いて、そのまま12㎞ほど逃げたところで捕まりました。
 寅吉は、足裏に五寸釘が刺さったまま逃げるという驚くべきことをやってのけたことから、「五寸釘の寅吉」という異名をもらうことになりました。

 寅吉は、脱獄を6回繰り返し、最後に投獄されたのが、網走刑務所です。

 網走刑務所での寅吉は、人が変わったように大人しくなりました。

 このことで、虎吉に対する刑務官の見方も変わり、刑期の最後のほうには刑務官の信頼まで得て、牢から出て刑務官の雑用を引き受ける模範囚にまでなりました。 さらに、出獄前には、刑務所の門外に出ることを許され、外掃除の仕事までしました。

 刑務所の門の外に出た寅吉は、脱走することはありませんでした。

 こうして寅吉は、最初に逮捕されてから56年間入獄し、73歳の時、高齢を理由に釈放されました。

 寅吉の釈放を待っていたのは、興行師たちでした。
 当時、虎吉は、脱獄名人として全国に名を知られた有名人でした。
 興行主たちは、特異な経歴を持つ虎吉に注目していたのです。
 出獄した虎吉は、大阪の高木興行部に専属して全国を回り、自らの半生を語って人気を博しました。
 虎吉は、お客さんに、泥棒に入られない方法をおもしろおかしく語ったそうです。
 泥棒が、泥棒に入られない方法を語るのですから、聞く人はおもしろがったにちがいありません。
 
 その虎吉の舞台は、和服に輪袈裟をかけ、数珠を持ったお坊さんの姿でした。
 
 親鸞聖人は、「…円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す…」と説かれました。
 「円融至徳の嘉号」とは、念仏のことです。
 「…悪を転じて徳を成す…」とは、念仏には、悪を善に変える徳があるという意味です。これまでの悪人としての生き方を、徳を生み出す生き方に変えるということです。
 これまで行った悪行は、念仏を称えることで消えるわけではありませんが、悪行が意味を持った悪行に変わることを「転悪成善」と言います。
 犯した悪行が意味を持った悪行となって、これからの人生を生きる糧になってはたらいてくれることを「善と成る」と言うのです。

 「五寸釘寅吉」の舞台は、まさに、虎吉が「転悪成善」した姿でした。

 晩年の虎吉は、故郷に帰り、息子さんのもとで平穏に暮らし、87歳の波乱の生涯を閉じました。

【 無宗教 】

 気になる数字があります。
 下は、国別「無宗教」の人の割合を調べた結果です。
 「無宗教」とは、宗教を持たないことです。

    イラン   1%
    トルコ   3%
    ギリシャ 4%
    インド   4%
       |
    日 本  52%
    オランダ 55%
    チェコ   64%
    中 国  93%    Wikipediaより

 日本は、「信教の自由」が、憲法で認められた国です。
 「自由」とは、どの宗教を信じてもかまわないという意味ですが、「自由」ということばは、宗教を持たなくてもかまわないという意味にも解釈されます。
 このことから、日本は、国民の半数が宗教を持たない、世界で4番目に無宗教の人の多い国になってしまいました。
 日本は、仏教国と言われてきましたが、これでは、とても仏教国とは言えません。

 今、葬式をしない「直葬」や年間自殺者3万人超、孤立死などが社会問題になっています。
 
 宗教心とは、思いやりの心のことです。 
 仏教では、「慈悲」ということばで表します。
 慈悲とは、相手をいとおしく思い、相手の悲しみに寄り添う心です。
 宗教を持たない心から、慈悲の心は芽生えません。
 宗教を捨てることは、慈悲の心も捨てることになります。
 その結果、まざまな社会問題が起ってきました。
 捨てることは、「自分が捨てる」こともあるし、「自分が捨てられる」こともあることを知るべきです。
 また、憲法が保障する「自由」とは、「責任の持てる自由」を保障するという意味です。
 「責任の持てる自由」とは、自分が自由にしたことで、相手を不自由にさせることのない「自由」が保障されているということです。  合掌


平成23年9月

【 お寺の行事 】

     10月 未定   お 講 08:00 お勤め
               09:00 おとき
               当番 石川組
           
     11月12日(土)かかお講 当番 道辻組

         13日(日)お七昼夜 当番 谷口組
             
           お誘い合わせてお参り下さい。

【 人は生きてきたように死んでいく 】

 ある介護職員が、次のような話をしてくれました。
 「自分の名前も言えず、さっき食べたことも忘れてしまう認知症の人が、『正信偈』だけは、間違わずに言えるのです!」
 この話を聞いて、深く考えさせられました。
 認知症は、高齢の人に多く発症すると言われてきましたが、最近では、若い人の発症例も報告されています。
 現在、日本では、認知症の人が約200万人いると言われてます。認知症は、高齢になると発症率が高くなり、85歳以上になると、約2割の人が認知症になるとも言われています。
 日本人の平均寿命は高止まりしたという報告もありますが、平均寿命は延びなくても、長生きする人は増えています。
 そうしたとき、自分も長生きして認知症になったとしたら、何を覚えていて、どんなことを言うのかと考えたら恐ろしくなります。
  『正信偈』だけは間違わずに言えるとか、自然と手が合わさって念仏を称えるとか、そういうことができるかどうか不安になります。

 これまで、終末医療にかかわり、2,500人の看取りをした柏木哲夫医師が、記者の質問に答えました。

  記者・これまで、2,500人の看取りをして、何か発見したことがありますか?
  医師・人は、生きてきたように死んでいくことです。
       しっかり生きた人は、しっかり亡くなっていきますし、だらしなく生きた人は、だらしなく死んでいきます。
      また、まわりに感謝して生きた人は、感謝して死んでいきますし、不平不満愚痴で生きた人は、不平不満愚痴を言いながら死んでいきます。
      このことは、よき死を迎えるためには、よき生を生きねばならないことを教えてくれています。
  記者・では、よき生を生きるためにはどうすればよいでしょうか?
  医師・やはり、前向きに生きることと、まわりに感謝して生きることです。
      物事にはプラス面とマイナス面がありますが、プラス面をしっかり見つめて生き、最期は「ありがとう!」と言い、見守る人からも「ありがとう!」と言ってもらいながら命を全うするのが、よき生だと思います。

 「ありがとう!」は、相手に不平不満愚痴がないから出てくることばです。また、相手を信ずる心から生まれることばです。
 相手に疑いを持ち、不平不満があれば、「ありがとう!」とは、とても言えません。
 相手のプラス面を見ているから、不平不満がなく、相手を信じられるのです。相手を信ずることによって、相手に対する不平不満が消え、不平不満が消えることで、「ありがとう!」と手を合わす心が生まれるのです。

 金沢のある住職さんから聞いた話です。
 住職さんは、5歳で実母を亡くし、義母に育てられました。
 実母に抱かれた感覚が忘れられない住職さんは、義母になじめませんでした。義母は、何から何まで実母と違いました。
 時には、義母に反発し、叱られもしました。そうしたとき、ますます義母が嫌いになりました。
 20歳になったとき、赤紙が来て、出征しなければならなくなりました。
 当時、出征兵士は、登り旗を立てた親類縁者近所の人に盛大に見送られて、戦地へ赴きました。
 住職さんも、小立野のお寺から金沢駅まで歩いて、たくさんの人に見送られながら出征することになりました。
 出発のとき、義母は、「金沢駅まで行かない!寺に残る!」と言いました。
 いよいよ出発というとき、住職さんは、「義母の顔を見るのは、これが最後になるかも知れない。今まで、散々反発して、現在でも義母にはすっきりした気持ちを持っていないが、15年間育ててくれたお礼ぐらいはせめて一言言っておこう!」と思って、後ろを振り返ると、義母は、玄関の奥の部屋に座って、じっと住職さんを見つめていました。
 その義母の目は、何とも言えない憂いを含んでいました。
 住職さんは、その目に吸い寄せられるように、靴を脱いで家に上がり、義母の前に手をついて、「これまで育ててくれてありがとうございました!」と言いました。
 そのとき、義母は、住職さんににじり寄って来て、耳元でささやきました。
 「生きて帰って来い!鉄砲の弾に当たっても帰って来い!母ちゃん待っとるさかい!」と言いました。

 「生きて帰って来い!」とは、とても言えない時代の、思いがけない義母の一言でした。
この義母の一言で、住職さんは、15年間抱え続けてきた義母に対する氷のような疑いと不満のしこりが溶ける思いをしました。
「生みの親より育ての親」ということを深く感じた住職さんは、義母の15年間の苦労を踏みにじり続けた自分の勝手な思い違いを恥じるとともに、義母の育ての恩を心に深く刻んだのでした。

 思うに、この母子の今生の別れは、住職さんが「ありがとう!」と言い、先立つ義母も「ありがとう!」という感動的な別れになったにちがいありません。
 そういう別れが出来なくなっています。
 私たちは、そういう別れが出来ないような生き方をしています。
 心配なことは、そういう生き方をした者が認知症になったとき、何を言い出し、どんなことばを遺して死んでいくのかと考えたら怖い気もするのです。

【 赤尾の道宗 】

 今から500年前、越中五箇山の赤尾谷に道宗という妙好人が住んでいました。
 妙好人とは、すぐれた念仏者のことです。
 道宗は、幼い頃に父母を亡くし、叔父に育てられました。
 父母の顔に似た仏像が九州にあると聞いた道宗は、九州へ向けて旅立ちます。
 途中、京で蓮如上人に会うご縁があり、そのまま弟子となりました。蓮如上人の教えを受けた道宗は、熱心な念仏者となりました。
 その道宗が、寝るとき、48本の薪の上に寝たと伝えられています。
 48という数字は、阿弥陀仏の本願が48あることにちなんだものです。
 道宗は、阿弥陀仏の本願に救われてある自分を深く思い、阿弥陀仏のわが身にはたらくご苦労を忘れないため、48本の薪の上に寝たのです。
 薪の上に寝れば、体が痛くて熟睡できません。
 道宗は、とかく惰眠をむさぼりがちな自分を戒めるた
め、薪の上に寝たものと思われます。
 わずかな睡眠時間しか取らなかった道宗は、聞法道場を開いて、お念仏の教えを五箇山の人に伝えました。その道場が、現在の行徳寺になりました。
 さて、私たちは、何の上に寝ているのでしょうか。
 煩悩を枕にして、惰眠をむさぼる自分が反省されることであります。  合掌

平成22年9月

【 お寺の行事 】

   9月は、お寺の行事はありません。

   9月23日は、秋のお彼岸の中日です。家族そろって、お墓参りにお出かけください。お供えは「おはぎ」が慣例です。

   10月 3日(日) お講 8時 お勤め
                  9時 おとき
                  当番 土肥組  

           お誘い合わせてお参り下さい。

【 石垣完成 】

 極應寺脇参道の石垣が完成しました。
 鐘楼付近の木が1本枯死したため、伐採しました。そのついでに、竹やその他の雑木なども切りました。
 木や竹が無くなったことで、土崩れの心配がでてきました。
 土崩れを予防するため、石垣の設置を計画したところ、福嶋精一郎さん(火打谷)が石を寄付してくださり、横幅約20m、坪数にして約7.3坪の石垣を組むことができました。
 今後、石垣上部の空地に、ツツジやサツキなどを植えて公園化し、境内の環境を整える予定です。

【 死刑制度 】

 拘置所の刑場が報道陣に公開されました。
 刑場内部の写真が新聞やテレビを通じて報道されたことで、死刑囚が処刑されるときの様子を想像した人も多いことと思います。
 国が刑場を公開した意図は、死刑制度廃止に向けた国民の世論を高めようとのねらいがあるようです。
 現在、国連に加盟している国で、死刑を廃止している国が139カ国、死刑を続けている国が58カ国あります。日本は、死刑を続けている国に入っています。国連は、死刑制度廃止の決議案を可決し、日本にも死刑廃止を勧告しています。
 世界の趨勢は、死刑廃止に傾いています。
 今回の刑場公開は、このような状況からの政治的意図によるものと思われます。
 しかし、死刑廃止については賛否両論があります。
 テレビのインタビューで、「殺人被害者の会」の会長さんは、刑場公開は世論を死刑制度廃止に持っていこうとする情報操作であるとし、死刑制度存続を主張しました。また、死刑制度廃止を主張している弁護士さんは、刑場の公開は、もっと詳しくするべきだと述べました。まったく、正反対の意見でした。
 死刑制度廃止については、さまざまな角度からの議論が必要です。
 たとえば、死刑を執行する刑務官の心情です。
 死刑執行は、3人の刑務官が、ボタンを同時に押すことによって行われますが、誰のボタンで刑が執行されたか分からないようになっています。分からないから、ボタンを押した刑務官は、良心の呵責を感じないかというと、そうではありません。自分の押したボタンで刑が執行された可能性があるからです。ボタンを押した刑務官には、複雑な心情が残ります。
 ボタンを押した経験のある刑務官は、インタビューで、「…あのときは、受刑者を憎いと思ってボタンを押した!…」と語っていました。そのように思わなければ、ボタンを押せなかったのでしょう。
 江戸時代には、斬首という刑罰がありました。首切りの刑です。そして、もっぱら斬首を専門にする役人もいました。この役人は、斬首の刑を執行した晩は、夜通し酒盛りをしたそうです。血に酔って、興奮し、眠れないからです。役目とはいえ、辛い仕事でした。
 執行ボタンを押す刑務官も、斬首する武士も、殺したいから殺すのではありません。仕事だから、仕方なしに殺すのです。
 『歎異抄』という書物に、次のような問答が載っています。
   親鸞・お前は、千人の人を殺せば極楽往生させてやると言われたら、千人の人を殺せるか?
   弟子・そんなことはできません!
   親鸞・そうだろう! 人間は、人を殺そうと思えば、千人でも何人でも殺してしまう。しかし、殺す縁がなければ殺すことはない。自分の心が良くて殺
       さないのではない。また、殺したくないと思っていても、百人千人も殺してしまうこともあるのだよ!
 殺したくないと思っても、殺さねばならないのが刑務官であり、斬首にたずさわる武士の仕事でした。先の戦争でも、出征した兵士には同じことがあったのではないでしょうか。
 そもそも死刑は、廃止すべきものなのでしょう。
 たとえ極悪非道の罪人であっても、裁いて殺してしまう権利は誰にもありません。
 昔の死刑は、社会の秩序を守るため、見せしめのため、公開で行われることもありました。今の死刑も、そういう意味合いを含んでいます。
 しかし、日本の場合、死刑は残酷だから止めようということには、すぐにはなりません。被害者感情を無視できないからです。かけがえのない肉親を殺された家族の多くは、犯人を、殺しても殺し足りないくらい深く憎んでいます。
 死刑制度を廃止する場合、この点にも配慮しなければなりません。
 そして、現在の日本には、死刑を廃止できる社会的条件がそろっていません。犯罪者を死刑にせず、生かして受け入れられる社会にはなっていないからです。
 たとえ、死刑廃止になったとしても、社会が犯罪者を受け入れられる条件をそろえていなければ、犯罪の再発を予防できません。犯罪の再発を予防できる社会的条件がそろって初めて、死刑を廃止できるのです。
 その条件とは、犯罪者を「赦す」ことです。「赦す」とは、罪を問わないことです。人を殺した人を、罪を問わずに社会に受け入れる状況ができあがることが条件です。
 『正信偈』に「…摂取心光常照護…」という一句があります。
 仏さまは、誰彼なく救おうと誓って、常に私たちを照らし護ってくださっています。仏さまが「照護」するのは、善人だけではありません。悪人も「照護」しています。照らす対象に差別はありません。仏さまが善人悪人を差別しないのは、「赦し」の心があるからです。善悪区別せず、共に救うのが仏さまのお心です。
 死刑廃止を決めるのは国家ですが、犯罪者を受け入れるのは、私たち国民です。
 私たちは、仏さまの「照護」の心を持って、「赦し」の心を持って犯罪者と向き合うことができようになれば、死刑のない社会を作ることができます。
 死刑を廃止するか否かは、私たちの問題なのです。          合掌

平成21年9月

【 お寺の行事 】

     9月は、お寺の行事はありません。

   〈今後の予定〉10月 お  講(当番・福島組)
          11月 かかお講(当番・谷川組)
              お七昼夜(当番・石川組)

【 ウジ虫も光って見える世界 】

 『納棺夫日記』の青木新門さんの講演会が金沢別院でありました。
 映画「おくりびと」は、『納棺夫日記』をもとにして制作されました。
 映画がアカデミー賞を受賞したことで、青木新門さんは一躍時の人となり、人々の納棺夫という職業に対する意識も変わったように思われます。
青木新門さんは、映画の原作者となることを断りました。
 脚本そのものは、立派な出来でしたが、『納棺夫日記』で訴えたかった死後の世界ことが省かれていたからです。このことが、辞退の理由でした。
 『納棺夫日記』は、「ウジ虫も光って見える世界」を描くことがテーマでした。映画は、このテーマに触れられていませんでした。死んだ人を送りっぱなしにして、死後の世界のこと、仏教のことばで言えば「後生(ごしょう)」のことが描かれず、残った人たちの癒しばかりが強調されていたからです。
 青木新門さんは、納棺夫として、さまざまな死と出会いました。ウジ虫が湧いた3ケ月の腐乱死体を納棺したこともあります。個人的にも、不仲だった叔父さんの死とも出会いました。青木新門さんは、「生と死」が交差するとき、つまり生と死が入れ替わる「後生の一大事」にたくさん立ち会ってきました。
 叔父さんが死んだあと、一編の手記を読む機会がありました。
それは、32歳の若さで、肺ガンで亡くなった井村和清医師が書いた手記でした。
 井村和清医師は、レントゲン検査で余命いくばくもないことを知らされました。死を覚悟しました。そして、生きられるだけ生きようと決意し、病院から帰ってアパートの駐車場に車を止めたとき、不思議な光景を見ました。
     …世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走り回る子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱      が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。…
                                                                     『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』より抜粋
 この文章を読んだとき、人間は、生と死が限りなく近づき、自分は死ぬのだと覚悟して死を受け入れたとき、世の中が輝いて見えるのではなかろうか。不仲だった叔父さんを死の直前に見舞ったとき、あれほど私を嫌っていた叔父さんが”ありがとう”と言って手を差し伸べた。叔父さんの目にも、井村和清医師と同じように、世界が輝き、受け入れることができなかった甥の私までも輝いて見えていたにちがいないと考えました。
 それ以来、納棺の仕事のとき、亡くなった人の顔ばかり見るようになりました。これまで、亡くなった人の顔をたくさん見てきたはずなのですが、あらためて亡くなった人の顔を見ると、亡くなった人は、みないい顔をしています。安らかな顔をしています。中には、笑みを含んでいる人もいました。
 そう感じたとき、亡くなった人のいい顔と、井村和清医師が書いた手記の内容につながりがあることに気づきました。
 死が近づいた人は、世の中が輝いて見える。亡くなった人がいい顔をしているのは、世の中の輝きを見ながら、新しい光りの世界へ生まれ変わっていくからにちがいないと確信しました。
 井村和清医師には、
     …ありがとう、みなさん。
     人の心はいいものですね。思いやりと思いやり。それらが重なりあう波間に、私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。幸せです。
     ありがとう、みなさん、ほんとうに、ありがとう。
                                                                     『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』より抜粋
という手記もあります。
井村和清医師は、最期までこの世の輝き、人の心の輝きを感じながら、「幸せです」ということばを残し、「ありがとう」ということばを何回も繰り返して亡くなりました。青木新門さんの叔父さんも、「ありがとう」と言って亡くなりました。
 昔と違って、現代の私たちは、「生と死」が交差するとき、生と死が入れ替わる「後生の一大事」に立ち会う機会を逃しています。むしろ、立ち会うことを敬遠する傾向すらみられます。病院任せにして、病院に到着したときには、すでに亡くなっていたというケースもままあります。
 「生と死」が交差する瞬間は、逝く命と残る命が交歓する大切な時間です。逝く人が「ありがとう」と言い、残る人も「ありがとう」と応える。命のバトンタッチが行われる感動的な瞬間です。
 命が消える瞬間に立ち会えば、残る人の死への恐怖が和らげられます。生と死が入れ替わる瞬間に立ち会えば、死ぬことは光りの世界に生まれることだと、感動をもって知らされます。
  そのため、その瞬間に立ち会ったことのある人とそうでない人とでは、死生観が大きく異なります。そして、人生観も異なります。
 『安楽集』(道綽撰)に「…前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪らへ、…無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。」とあります。
 「前に生まれん者」とは、死に逝く人のことです。その人は、「後に生まれん者」、つまり、残った人を教え導いてくれるのです。死ぬことは怖いことではない。安らかな光りの世界に生まれることだと教えてくれるのです。この教えを受けることで、「無辺の生死海」、つまり、果てしない人生の苦しみを乗り越えて生きる力をたまわるのです。
 青木新門さんは、現代のさまざまな社会問題は、「生と死」が交差する瞬間に立ち会う経験が少なくなっていることから起こっていると考えています。
そして、納棺夫の仕事は、命のバトンタッチをお手伝いすることだ。そう思えるようになったとき、納棺夫の仕事に誇りを持てるようになったとも語りました。

【 お彼岸 】

 昔、ある悪人が心を入れ替えて出家し、極楽往生したという話しがあります。
 悪人の源大夫が、お坊さんから「西の方角に阿弥陀仏がおられる国があり、どんな悪いことをした人でも、それを悔い改めれば、必ず迎え取ってくれ、必ずめでたい身となって、ついには仏さまになれる」と聞きました。
 喜んだ源大夫は、髪を剃って修業者となり、西を目指して歩き始めました。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と称えながら、ひたすら西に向かって歩きました。海に出た源大夫は、海岸に生えていた松に上り、なおも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と称えました。
 これを見た人が、7日後に見に来たときも同じように念仏を称えていました。さらに、7日後に来たとき、松の上で念仏を称える姿勢のまま、西を向いて亡くなっていました。口からは、蓮華が一葉生えていました。
 仏教では、仏さまは蓮の花から生まれると説かれます。
 『今昔物語集』に出てくる、お彼岸にまつわるエピソードです。    合掌

平成20年9月

【 お寺の行事 】

  9月は、お寺の行事はありません。

  9月20日(土)は、秋の彼岸入りです。23日(休)が彼岸の中日です。 ご家族みなさんで、お墓参りにおでかけください。

【 同一个世界 同一个夢想 】  

 北京オリンピックが終わりました。
 北京オリンピックのテーマは、「同一个世界 同一个夢想」。英語で、「One world One dream」。「世界は一つ。一つの夢に向けて」というような意味でしょうか。「一つの夢」とは、「世界平和を実現する夢」ということでしょう。孔子や荘子など、多くの思想家を生んだ歴史を持つ、いかにも中国らしいテーマでした。
オリンピックは、平和の祭典と言われます。オリンピックの精神は、人々が国家や民族の違いを超え、スポーツをとおして仲良くなることにあります。
 しかし、オリンピックは競い合う場です。仏教で言えば、阿修羅道。戦いの世界です。阿修羅の世界は、煩悩の世界。迷いの世界です。煩悩の世界では、人々が仲良くなることは、至難のわざです。戦いの世界では、敵と味方が仲良くなり、一つになることはなかなか難しいことなのです。
 しかし、「同一个世界 同一个夢想」は、国家や民族が一つになり、団結するには有効なスローガンかも知れません。
 このことを実感したのが、野球競技でした。日本の野球チームは、「金メダルしかいらない!」という目標を立てて、オリンピックに臨みました。韓国チームは、「目標は銅メダル。銅メダルにも意味がある!」という控えめな目標でした。
 韓国は、選手を選ぶとき、「チームワークを保てる選手」を優先しました。野球のような団体競技には、チームワークが必要です。チームの団結力の差が、勝敗を大きく左右します。団結力を高めるには、北京オリンピックのテーマのように、「同一个世界」というような仲間意識が必要です。さらに、「同一个夢想」という共通の目標も必要になります。
 韓国チームには、明確な「同一个夢想」がありました。それは、「銅メダルにも意味がある!」ということばに込められていました。韓国には、オリンピックでメダルを獲れば、兵役が免除されるというきまりがあります。「目標は銅メダル」としたのは、このことと深い関係があります。どの色でも、メダルさえ獲れば、兵隊に行かなくてもよい。この思いが、韓国チームの団結力を強めました。
 この韓国選手の思いを象徴する場面がありました。
 準決勝で日本に勝ったとき、ウイニングボールを捕った韓国選手がグランドにうずくまり、他の選手たちも抱き合って、泣いて喜び合いました。準決勝で勝てば、銀か金かのメダルが確定します。それは、韓国選手にとって兵役免除を意味します。準決勝で日本に負ければ、どこかの国と3位決定戦をしなければなりません。3位決定戦に勝って、ようやく銅メダル。喜びは、それまで持ち越しとなります。
 準決勝で勝った韓国チームの勢いは止まりませんでした。「同一个夢想」の目標を達成したあとの決勝戦でも勝って、「目標は銅メダル」だったチームが、金メダルまで獲得してしまいました。韓国チームにとって、北京オリンピックは、優勝を2回したような幸せなオリンピックとなりました。
 柔道の100㎏超級に出場した日本の石井慧選手は、北京オリンピックへの抱負を聞かれて、「戦争に行くつもりで試合に出る」と答えました。戦争のつもりで試合をした石井選手は、金メダルを獲得しました。これに対して、「同一个夢想」や「同一个世界」のまとまりがなかった日本の野球チームは、メダルを獲れませんでした。
 これが、阿修羅道、戦いの世界の現実です。勝って喜び、負けて悔しがる。その思いを交互に味わい、平穏無事で平和な日々の続かない世界が阿修羅の道なのです。
 『大無量寿経』というお経には、平和な世界とは、「天下和順 日月晴明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用」と説かれています。「兵戈」とは、兵器のことです。「兵戈無用」とは、兵器を用いないこと。つまり、戦いのない世界が平和なのです。しかし、人間は、戦いをせずにはおれません。オリンピックには、心躍るものがあります。それは、煩悩がそうさせるのでしょう。「平和」「平和」と言いながら、戦いをせずにおれない人間。勝って喜び、負けて泣き。勝って褒められ、負けてけなされ。オリンピックは、でる選手も、観る人も悲喜こもごもであります。

【 生きるヒント 】

 左手が不自由になり、腎不全で週3日の透析を受けている女性がいます。彼女は、以前は、ヨガや水彩画を楽しみながら、家事や仕事をこなしてきました。体が不自由になった彼女は、「左手が動かない」、「ヨガができない」、「水彩画を描きにでかけられない」、「透析に時間をとられて時間がない」などと、「ない」「ない」ばかりを考えるようになりました。
 ある日、「ない」から「ある」に発想を切り替えてみました。そうすると、「左手を使わないでもヨガができる」、「水彩画を描きに外出しなくても庭の花を描ける」、「右手だけでも料理ができる」ことが分かりました。
 そう思うと、元気が出てきました。〈毎日新聞より〉
私たちも、「お金がない」、「体が動かない」、「人生の残りが少ない」などと、不足ばかりをぐちっているのではないでしょうか。
 「お金がなくても、できる生活がある」、「体が動かなくても、考える楽しみがある」、「人生の残りが少ないからこそ、しなければならないことがある」などと、「ある」「ある」に発想を切り替えることで、前向きな気持ちになり、足りないことに不足を感じない「知足」-足ることを知る生活を楽しめるのではないでしょうか。

【 秋 】

 『暴走老人』(文藝春秋刊)という本があります。その中に、子どものときは、1日や1年が長く感じられたのに、なぜ年齢を重ねるごとに短く感じるようになるのか解説されています。
 時間は、子どもも大人も同じ時間が平等に与えられています。それなのに、年齢差によって、同じ時間を長く感じたり、短く感じたりするのはなぜでしょうか。
 人は、「体内時計」という時計を体の中に持っています。この時計の進み方が、子どもと大人や高齢者では違います。違いは、脈拍数によって現れます。1分間は60秒です。高齢者の1分間の脈拍数は50ぐらいです。子どもの脈拍数は70ぐらいです。このことから、高齢者の体内時計の進み方は、子どもの体内時計より遅くなります。体内時計の進み方が遅くなると、実際の時間は先に行ってしまいます。このため、高齢者には時間の経つのが速く感じられるのです。
 「朝起きて、顔を洗い、朝食をすませて身支度を整えると、もう昼になっている。
しばらく休んで、さて仕事にとりかかろうと外にでると、もう暗くなっている。」
 少しおおげさな言い方ですが、これが高齢者の生活実感です。
 「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」とは、中国の朱子という人が言った警句です。人生は、あっと言う間に過ぎてしまいます。一つのことを成し遂げるには、十分な時間はありません。だから、一時も時間を無駄にするなといういましめのことばです。
 秋は、日暮れが早くなります。1日の活動時間も短くなります。もたもたしていると、何もせず、何もできずに人生の日暮れを迎えることになります。 合掌

平成19年9月

【 少欲知足 】

 厚化粧、派手な振り袖姿で、三味線を弾きながら歌う69才の双子の姉妹。ここは、北海道の病院の食堂です。

 ♪ 津軽の海を 越えてきた
   ねぐら持たない みなしごつばめ
   江差恋しや 鰊場(にしんば)恋し
   三味を弾く手に 想いをこめて
   ヤーレン ソーラン ソーラン
   唄う ソーラン
   ああ渡り鳥 ♪

 こまどり姉妹の歌う「ソーラン渡り鳥」が大ヒットしたのは、昭和36年のことでした。
昭和13年、こまどり姉妹は北海道の釧路で生まれました。二人の子ども時代は、極貧の生活でした。
 炭坑で働くお父さんが、肺を患って働けなくなりました。家賃を払えなくなった一家は、小樽へ引っ越しました。生活は、お母さんが支えることになりました。お母さんは、闇米を売ったり、夏には水飴を作って売ったりしました。しかしお母さんの稼ぎは、貧乏に追いつくものではありませんでした。空腹に堪えかねた二人は、他人の畑のトマトを盗んで食べたり、他人の家のニワトリ小屋から卵を盗んで食べました。木から落ちて売り物にならないリンゴが拾えると聞くと、遠くのりんご畑まで出かけました。主食は、じゃがいもかお母さんがこねて作ったうどんでした。小学校は、2年間しか通っていません。教科書やノート、裁縫の授業で使う布や糸も買えなかったからです。以来、二人は、学校へ通うことはありませんでした。
 小樽でも家賃を払えなくなった一家は、ふたたび夜逃げ同然の状態で、借りている家を出ました。一家には、住む家がなくなってしまいました。その日から、国鉄の駅の待合室が一家のねぐらとなりました。民謡が上手かったお母さんは、生きるために、民家や商店の軒先に立って門付けを始めました。一家は、駅に寝泊まりしながら、北海道各地を転々としました。
 二人が歌の世界に入るきっかけとなったのは、釧路でのできごとでした。
ある商店主が言いました。
 「母さんの歌はいいから、そこにいる双子の娘に歌わせたらお金をあげる!」
それからです。二人は、お母さんに代わって門付けを始めました。釧路や帯広のネオン街も流して歩きました。でも、思ったほどの稼ぎにはなりませんでした。
ある日、お父さんが提案しました。
 「同じ流しをするなら、大都会の東京へ行くか?」
 翌年、一家は東京へ出ました。二人は、12才でした。
 8年後の昭和34年、浅草を中心に、流しをしていた姉妹に転機が訪れました。作曲家の遠藤実に見いだされたのです。この出会いが、二人の、スター街道への出発点となりました。芸名も、「こまどり姉妹」としました。
 その2年後、「ソーラン渡り鳥」が大ヒットしたのです。有楽町の日劇や浅草の国際劇場は、お客さんで超満員になりました。
 ザ・ピーナツと人気を二分する売れっ子歌手になったこまどり姉妹は、以後、NHK紅白歌合戦に7回連続して出場しました。
 あれから40余年。今、こまどり姉妹のステージには、バンドも司会もありません。あるのは、カラオケと三味線とマイクだけです。会場も、劇場や大ホールではありません。病院の食堂や老人ホームの集会室などです。
 こまどり姉妹のこんな姿を見て、人は言います。
 「あら、まだ生きてたの?」
 「そんなに落ちぶれてまで歌っていたいの?」
こまどり姉妹は、きっぱり答えます。
 「人は、私たちの全盛期と今を比較するから、私たちを惨めだと思うのです。で  も、私たちが今を比べる原点は、着る物も、寝る場所もなかった門付けや流し  の時代なんです。今、私たちの歌を聴いていただいて、生活ができる、こんな  幸せはないんです!」
 こまどり姉妹は、どん底と人気の頂点を極めました。そのことばには、重みがあります。『大無量寿経』というお経には、「少欲知足」(欲張らず、満足して生きる)ということが説かれています。歌を聴いてくれる人がいれば、出演料を度外視して、何処へでも出かけていくこまどり姉妹。筋金入りの「少欲知足」の生き様であります。

【 三人の天使 】

 仏さまの教えに、次のような話があります。
 この世で悪事を重ね、死んだあと地獄に落ちた罪人に、閻魔大王が尋ねました。

閻魔・「お前は、娑婆にいたとき、三人の天使に会わなかったか?」
罪人・「はい、閻魔さま。私はそのような者に会いませんでした。」
閻魔・「それではお前は、年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見かけなかったか?」
罪人・「そういう老人ならば、いくらでも見ました。」
閻魔・「次に、お前は、病にかかり、見るも哀れに、やつれた人を見なかったか?」
罪人・「はい。そういう病人ならば、いくらでも見ました。」
閻魔・「さらに、お前は、死んだ人を見なかったか?」
罪人・「はい。死人ならば、いくらでも見ました。」
閻魔・「それらの人たちが天使なのだ。人は誰も、いずれは年を取り、病に苦しみ、やがて死ぬのだ。そのことを思わず、お前はそれらの人々を粗末に思い、お     ろそかにし、善をなすことを怠った。お前は、その報いとして地獄に落ちるのだ。」
 日本は、65才以上の高齢者の割合が増えています。30年後には、人口に占める割合が30%を超えると予測されています。石川県は、30年後を待つまでもなく、13年後の平成32年には、高齢者の割合が県人口の30%を超えます。高齢者の増加は、困った問題だとされていますが、仏教の見方はまったく違うようです。高齢者が増えるということは、「天使」が増えるということです。天使たちが作る優しい社会は、現在のいろいろな社会問題を解決してくれるのではないでしょうか。   合掌

平成18年9月

【 お彼岸 】

 お彼岸は、1年に2回あります。期間は、それぞれ1週間です。彼岸入りして4日目が中日となり、その中日を、それぞれ「春分の日」「秋分の日」と言います。
 私たちは「春分の日」と「秋分の日」は、昼の長さと夜の長さが同じだと教わりました。また、「暑さ寒さも彼岸まで」とも言われ、お彼岸は、季節の節目であることも知っています。
 では、なぜ、「彼岸」というのでしょうか。
 彼岸は、仏教用語です。彼岸は、あちら側という意味で、「此岸(しがん)」に対することばです。此岸とは、こちら側という意味です。こちら側とは、私たち人間世界、娑婆世界、迷いの世界のことです。したがって、彼岸はあちら側の世界ですから、迷いを脱した覚りの世界、涅槃の世界、極楽浄土ということになります。 彼岸ということが言われ出し、3月と9月の中下旬の各1週間が特別な日として意識されるようになったのは浄土信仰が盛んになってからのようです。仏教では、極楽浄土のことを西方浄土とも言い浄土は西の方角にあると説きます。そんなことから、極楽浄土を信ずる人たちは、西の方角に特別な感情を抱くようになりました。春分の日と秋分の日には、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。太陽が真西に沈むということは、太陽の沈む方角に極楽浄土があるということです。真西に沈む太陽が、極楽浄土の正しい方角を示しているのです。
 大阪の四天王寺の門は、真西に向けて建てられました。その手前に石の鳥居があり、その鳥居の扁額には、「釈迦如来転法輪処、当極楽土東門中心」と刻まれています。「この門は、お釈迦さまが説かれた極楽浄土に至る正門である」という意味です。春と秋のお彼岸には、太陽が、この門の真上から、門の真ん中を通って沈みます。晴天の日には、その神々しい様子を見ることができ、沈みゆく太陽に向かって手を合わせる多くの善男善女の姿があります。
 このようなことから、お彼岸には、お寺参りをし、お墓参りする習慣が生まれました。いつかは、自分も行くであろう清らかな極楽浄土に思いを馳せ、やがて会えるであろう遠い近いご先祖の方々を偲び、静かに手を合わせるのです。
 さて、春の彼岸の花は、彼岸桜です。秋の彼岸は、彼岸花です。ともに、彼岸の頃に咲くので、この名が付けられました。彼岸桜は、山地に自生する一重の山桜の別名です。春のお彼岸の頃は、能登地方の桜はまだつぼみです。しかし、その頃は、ウグイスが鳴いています。日ごとに膨らむ桜のつぼみとウグイスの鳴き声は、やがて訪れるうららかな陽春の到来を確信させます。
 また、秋に咲く彼岸花は、曼珠沙華のことです。曼珠沙華とは、天上の花という意味です。秋の刈り入れが終わった田の畦などに、深紅の花を咲かせているのをよく見かけます。そして、お彼岸の仏壇には、「おはぎ」をお供えします。「おはぎ」は、秋の七草の一つである「萩(はぎ)」に由来しているようです。
 秋のお彼岸のお墓参りの途次には、彼岸花や萩の花を観賞し、お下がりのおはぎをいただくのも一興でしょう。

【 四住期 】

 インドには、人間の生涯を4つの期間に区分して、それぞれの期間における人間としての理想的な生き方を説く、「マヌ法典」と言われる教えの体系があります。
 4つの期間には、それぞれ、名が付けられています。1.学生期(がくしょうき)2.家住期(かじゅうき)3.林住期(りんじゅうき)4.遊行期(ゆぎょうき)の4つの期間です。それぞれの期間は、約20年とされています。
 学生期は、人生の知恵を学び学問する学生の期間です。
 家住期は、学生期を終えた人が、社会に出て働き、結婚して一家を構え、子どもを産み育てる期間です。
 林住期には、我が子の年齢が家住期にさしかかります。この期を迎えると、家のことはそろそろ息子に任せ、この期の後半には隠居の身となります。
 遊行期になれば、俗世間のことには一切かかわらず、とらわれの心を捨てて、ひたすら人間としての完成を目指します。
 そして、一生を終えるのです。
 この「四住期」の考え方は、インド人に限らず、すべての人間の一生に当てはまる理想的な生き方ではないでしょうか。
 しかし、現代は、四住期のような理想的な人生を生きることができません。
 学生期には、不登校・いじめ・家庭内暴力などの問題があります。
 家住期には、せっかく社会の役に立つ年齢になったにもかかわらず、フリーターやニート、契約社員などで生きねばならない若者が多くいます。結婚も出来ず、子も生めないという事態が大きな社会問題になっています。たとえ、運良く結婚できて、子どもが生まれたとしても、幼児虐待に見られるように家庭崩壊の危機を抱えた家族もみられます。
 林住期は、退職前後の人生に相当します。現代は、無事に定年を迎えることができれば、幸運と思わねばなりません。この期は、リストラ・過労死、そして、退職後の生活・年金などの問題で頭を悩まされます。退職しても、安穏な暮らしが保証されていません。気楽な隠居生活とは、遠い昔の話になりました。
 遊行期には、介護・福祉の問題があります。介護をめぐる問題も二転三転しながら、いまだ流動していて、どこに落ち着くのか見通しさえ立っていません。
 私たちは、このような負の面を抱え込む可能性の高い時代を生きています。
 こういう時代であるからこそ、古人の知恵に学び、古人の知恵を生かした人生が模索されねばなりません。
 四住期の教えを説くマヌ法典は、学生期は「ひたむきに」、家住期は「おごらず」、林住期は「無理なく」、遊行期は「とらわれず」に生きることを説いています。このインドの思想は、当然のこととして仏教にも影響を与えました。
 「ひたむきに」「おごらず」「無理なく」「とらわれず」は、「南無する心で生きる」ことでもあります。

【 ハチドリの物語 】

 南米大陸にエクアドルという国があります。この国には、先住民に伝わる「ハチドリの物語」という昔話があります。ハチドリは、体長7㎝ほどの小さな鳥です。
 あるとき、アマゾンの森が火事になり、動物たちは、われ先に逃げ出しました。大きな動物も小さな動物も、みんな逃げてしまいました。
 しかし、一羽のクリキンデイというハチドリだけが残って、燃えさかる森の上を行ったり来たりして、くちばしにふくんだ水を火の上にかけています。森の火災は、ますます燃えさかり、消える気配がまったくありません。そんなハチドリの無駄とも思える様子を見ていた動物たちは、「おまえの行動は何の役にも立っていないではないか。焼け石に水とは、おまえの行動のことだ。なぜ、そんな無駄なことをするのだ」と非難します。
 ハチドリのクリキンデイは、「私は、私にできることをしているだけです」と答えました。
 私たちは、自分にできることをしているでしょうか。他人任せで、楽することばかり考えている自分が反省させられます。               合掌

平成17年9月

【 スローライフ 】

 最近、「スロー・ライフ」とか、「スロー・フード」ということが言われるようになりました。
 「スロー」とは、「ゆっくり」とか「のんびり」という意味です。「ライフ」とは、「生活・人生」という意味で、「フード」とは「食べ物」のことです。
 したがって、「スロー・ライフ」とは、「のんびりゆったりした生活や人生」という意味で、「のんびりとゆったりした生活や人生を送りましょう」という意味でもあります。また「スロー・フード」とは、「のんびりゆっくりと時間の余裕を持って摂る食事」という意味で、具体的には「スロー・ライフを送るにふさわしい郷土の野菜とか郷土料理を時間をかけて楽しんで食べましょう」ということです。
 これに対して、私たちは、「ファースト・ライフ」で「ファースト・フード」の日々を生きています。「ファースト」とは、「速い・素早い」という意味です。
 現代は、「速いこと」に価値があるとして、「速さ」を競う時代になりました。今では、石川県から、関東・関西圏は、ちょっとした用事ならば、日帰りが可能になりました。そして、「もっと速く・もっと便利に」を求めて、空や陸の交通網がさらに整備されようとしています。
 また、食べ物にしても、スーパーへ行けば簡単に食料が手に入り、しかも素早く食べられる時代になりました。その代表格が、インスタントラーメンです。昭和33年に発売された「チキンラーメン」は、お湯をかけてから、たったの2分後に食べられることで爆発的な人気商品となりました。今では、日本で年間52億食のインスタントラーメンやカップメンが作られています。日本の総人口は、約1億2,700万人ですから、この数字で計算すると、日本人は、老いも若きも、一人あたり、一年間に40食ほどのインスタントラーメンを食べていることになります。
 しかし、速くて便利になったからといって、私たちの生活や暮らしが快適でゆとりあるものになったかというと、必ずしも、そうとは言えません。
 かえって、忙しく余裕のないものになってしまったような気がします。
 たとえば、出張か何かで東京へ行くことになった場合、能登空港から飛行機を利用すれば、2時間で都心に着けます。しかし、早く着いたぶんゆっくりできるかというと、そうとはならず、別の用事もすることになり、東京の街中を走り回り、立ち食いソバ屋で食事を早く終えたぶん、余った時間は東京見物とはならず、やはり次の仕事で走り回るというようなのが、現役で働いている人たちの普通の行動パターンです。これでは、まるで、こまねずみです。こまねずみのように、一時もじっとせずに動き回ることが、現代日本人のライフスタイルとなりました。
 こんな生き様を「ファースト・ライフ」とか「スピード・ライフ」と言います。
 そして、このライフスタイルには、必ず欠陥がともないます。
 4月に起こったJR尼崎線の事故は、「スピード・ライフ」の欠点を象徴する出来事となりました。速さと正確さが求められ、その要求が人間の能力をはるかに超えてしまったため、電車をコントロールできなくなって、重大な事故を起こしてしまいました。事故を起こした列車の運転手や車掌には、「少しぐらい送れてもかまわない」という発想はありませんでした。遅れを取り戻すことで頭がいっぱいになっていたからです。
 では、運転手を急がせたのは、何だったのでしょうか。列車時刻表だったのでしょうか。また、列車を送らせた場合に受けねばならない罰則だったのでしょうか。もちろん、これらのことが運転手を急がせる直接的な原因になったことは間違いありません。しかし、私たちは、今回の脱線事故の背景に、「スピード・イズ・ベスト」、つまり「速さが一番」という世の中の風潮があったことを見逃してはなりません。
 この「速さが一番」という意識は、今、多くの日本人が患い、日本人の心に蔓延している心の病であります。
 JR尼崎線の事故は、「速さが一番」という心の病が「暴走」したときの怖さを、私たちに見せつけました。そして、「ファースト・ライフ」とか「スピード・ライフ」という生き様は、決して、私たちの心や生活に「ゆとり・安全・平穏」をもたらすものではないことを警告することとなりました。
 このような急ぎすぎることが引き起こす重大な問題の反省から、「スロー・ライフ」が注目されるようになったのです。
 この「スロー・ライフ」を求める傾向は、現代にはじまったことではありません。昔の人も、「スロー・ライフ」を求めました。
 今から1,600年前、中国の晋の時代に生きた陶淵明という詩人が、「桃花源記」という文を書きました。あらすじは、次のとおりです。

 ある川漁師が、上流に向かって船を進めていくと、川の水源に到着しました。水源となっている山の麓にはトンネルがあります。
 そのトンネルを抜けて、山の反対側に出ると、突然視界が開け、目の前に広々とした土地が広がり、家が所々に散在し、田には稲が育ち、灌漑用の池もあり、畑には野菜が育ち、鶏がのどかに鳴いている平和な別世界に着きました。そこは、時間がゆっくりと流れています。子どもからお年寄りまで、みな生き生きとして、遊んだり働いたりしています。みな、生きることを喜んでいるようすです。
 川漁師は、村人に歓迎されました。家々で、たいへんなもてなしも受けました。
 数日後、帰ることになった川漁師に、村人は「私たちのことを、他人に言ってはいけません」と口止めしました。
 しかし、川漁師は所々に目印を付けて帰り、人々に別世界のことを語りました。
 この話に興味を持った人が、目印をたよりに別世界を訪ねようとしました。しかし、途中で道が分からなくなり帰って来ました。また、別の人も同じ結果になりました。
 そして、その後、誰も別世界を訪ねた人はいませんでした。

 この「桃花源記」の話から「桃源郷」ということばが生まれました。「桃源郷」とは、「俗世間を離れた安楽な世界」という意味です。
 いつの時代でも、人々の心からゆとりを奪うその時代その時代が抱える問題がありました。そこから、「桃花源記」のような文章が生まれ、「スロー・ライフ」ということが言われるようになったわけです。
 今、火打谷でログハウスを持っている人が2人います。持ち主は、ログハウスを自宅の前や横に建てて、そこで休憩したり、くつろいだり、時には友達同士の気の置けない語らいの場として、誰にも気兼ねなく過ごせるこぢんまりとした空間でのひとときを楽しんでおられます。このログハウスの発想が、「スロー・ライフ」に通じます。ログハウスでのひとときは、日常の慌ただしさや忙しさから解放してくれます。解放されたことで、心にゆとりが生まれ、自分の生き方をじっくりみつめ直すことができます。そして、心のゆとりの時間は、身体の元気も回復してくれます。
 しかし、私たちは、ログハウスの中で一生を過ごすことは許されません。生きているかぎり、「ファースト・ライフ」社会の一員であるからです。依然として、忙しく慌ただしい毎日を生きねばなりません。
 そういう生き方の中で肝心なことは、「ファースト・ライフ」を送りながらも、「スロー・ライフ」に目が向いているかどうかということです。
 今、両方を見据えた心のバランス感覚が求められています。       合掌

平成16年9月

 
 【天人の五衰】
 
 テレビのオリンピック放送に気を取られているうちに、いつの間にか夏が過ぎて行ってしまいました。
 アテネオリンピックは、8月13日から17日間にわたって行われ、この期間中、日本では毎年のこととして、終戦記念日があり、全国各地で慰霊の行事が行われました。また甲子園では高校野球が行われ、北海道の高校が初優勝するという快挙もありましたが、日本国民の大部分は、アテネオリンピックに出場した日本選手の活躍に目を奪われ、期間中の国内ニュースは印象薄いものとなりました。
 それにしても、アテネでの日本選手の活躍は、めざましいものでした。
 オリンピックでは過去最多となるメダル獲得は、体力・体格ともに欧米の選手に劣ると言われた日本人が、世界に伍して戦えるまでに進歩したことを証明しました。殊に、日本柔道陣の強さは、世界を寄せ付けませんでした。48㎏級に出場した谷亮子選手のオリンピック2連覇。60㎏級に出場した野村忠宏選手のオリンピック3連覇は大偉業と言えるでしょう。
 そんな中で、100㎏級に出場した井上康生選手の予想外の敗戦は、多くの日本人を落胆させました。井上康生選手は金メダル確実と言われ、日本選手団のキャプテンにも抜擢されアテネ入りしました。そして、井上康生選手のシドニーオリンピックに続く2大会連続金メダル獲得は、誰もが信じて疑いませんでした。
 ところが、準々決勝に進んだ井上選手には焦りがありました。なかなかポイントを取れず、技を決められません。そして、無理にポイントを取りに行った技が、返し技を決められ、まさかの敗戦となりました。銅メダルを決める敗者復活戦に回った井上選手は、明らかに敗戦のショックを引きずっていました。敗者復活戦の1回戦でも、無理な技が返され、1本負けとなりました。
 銅メダルにも届かなかった井上選手は、畳の上に座り込んでしまいました。うなだれて会場を後にする井上選手の後ろ姿から、前回のシドニーオリンピックでは、表彰台の真ん中で誇らしげに母の遺影を高々と掲げて立ったときの王者の誇りと自信はまったく消えていました。
 仏教には、「天人の五衰」という教えがあります。天人が命終わるとき、5つの状態が現れるという教えです。『往生要集』という書物に、「天人の五衰」について「一には頭の上の花鬘忽ちに萎み、二つには天衣塵垢に著され、三には脇の下より汗出で、四には両の目数?み、五には本居を楽はず。この相現ずる時は、天女・眷属皆悉く遠離し、之を棄つること草のごとし。」と説かれています。
 天人の住む「天」とは、喜びと楽しみの世界です。しかし、天は六道の中にあります。六道とは、「地獄」・「餓鬼」・「畜生」・「阿修羅」・「人」・「天」の六つの境涯のことです。六道の中でも、天はましな方に位置づけられますが、六道そのものが迷いの世界であり、苦しみの世界です。したがって、天には、喜びや楽しみがある反面、迷いや苦しみもあります。
 なぜ、天には、喜びや楽しみと同時に、迷いや苦しみがあるのでしょうか。
 その理由は、天の喜びや楽しみは一時的なもので、永続性がないからです。喜びや楽しみが長続きしないところに、迷いや苦しみが生じます。このことから、天も迷いと苦しみの世界である六道に分類されるのです。
 天とは、たとえば欲しいものが手に入ったときの喜びの境地のことです。また、実現したいと思っていたことが実現したときの楽しみの境地のことです。しかし、これらの境地は、長続きしません。やがて、現状に満足できず、別のものが欲しくなったり、せっかく実現したものを失わねばならないときが来ます。人間の気持ちは移ろいやすく、また今の状態がいつまでも続くことはありません。そして、特に積み上げた実績を失わねばならないときには、非常な苦しみをともないます。
 前回のシドニーオリンピックで金メダルを獲った井上康生選手は、世界一の強さを実現し、「天」になりました。しかし、今回のアテネオリンピックではメダルにも届きませんでした。試合に負けた井上選手の憔悴しきったようすには、明らかに「天人の五衰」の相が現れていました。
 天人五衰の「一には頭の上の花鬘忽ちに萎み」とは、自信を失ってガッカリした状態のことです。「二つには天衣塵垢に著され」とは、自信から発するみなぎる威光も消えてなくなるということです。他を圧倒するようなオーラが出なくなるということです。「三には脇の下より汗出で」とは、焦りの気持ちが起こることを意味します。そして「四には両の目数?み」とは、動揺してどうしたらよいか分からず絶望的な気持ちになることです。五衰のうち、この4つが井上選手には当てはまります。そして井上選手は、へたをすれば「この相現ずる時に、天女・眷属皆悉く遠離して、之を棄つること草のごとし」と説かれるように、オリンピックで負けたことが原因で、これまで関わってくれていた人々が、井上選手から離れて行ってしまう憂き目に会わねばならないかも知れません。
 井上選手は、試合後のインタビューで「柔道が好きだし、自分自身の柔道を完成させるためにやっている。自分がまだどこの位置にいるか分からない」と述べました。このことばは、井上選手の迷いと苦しみを如実に物語っています。
 今後、井上選手は、ふたたび世界の頂点に立つべく、これまで以上に稽古に打ち込むことでしょう。しかし、勝ち負けを争う世界は、六道の中の「阿修羅」の道を歩むということです。たとえ阿修羅の道の戦いを勝ち抜いて、金メダルを獲って、ふたたび世界の頂点に立ち、天にたどり着いたとしても、そこは所詮六道の中のできごとです。六道の迷いや苦しみを超えるものではありません。ということは、ふたたび「天人の五衰」を味わうことになるということです。
 「天人の五衰」は、勝負の世界に生きる人のみが味わうものではありません。私たちの日常生活の中に「天人の五衰」があります。五衰の5番目は「五には本居を楽はず」です。これは、現在の境遇が恵まれているにもかかわらず、不満に思って、満足しない・満足できない、楽しまない・楽しめないという天に昇った人の慢心を述べています。恵まれているのに素直に喜べず、また喜ぶべきことを喜べないのは心に迷いがあるからです。迷いがあるということは、依然として六道の中をさまよい歩かねばならないということです。
上方漫才に「夢路いとし・喜味こいし」という兄弟コンビがいました。この兄弟は、60年間も漫才を続け、昨年、兄の夢路いとしさんが亡くなりました。記者会見に臨んで漫才人生60年間の思い出を語った弟の喜味こいしさんは、「いつも『ぼくらの漫才は1着にならんとこ』と言い合っていました」と述べました。
 二人は、1番になることの大変さ、1番であり続けることの困難さを知っていました。そして、2番目か3番目くらいが肩の力が抜けて、かえっていい漫才ができることに目覚めていました。
 夢路いとし・喜味こいしの兄弟漫才は、自分たちの「本居」を2番目か3番目くらいと心得て、迷わず漫才に打ち込みました。結果、その芸歴が60年間にも及び、漫才が二人の人生そのものとなりました。
 何が何でもなさねばならぬとか、ならねばならぬという心持ちは、心の余裕を失いがちです。そして、そういう気持ちでする行為は、やっていても楽しくありません。そこから気持ちを一歩退いて物事に当たれば、肩の力が抜けてのびのびと自分本来の持てる力が発揮でき、好結果につながることを夢路いとし・喜味こいしの兄弟漫才は教えてくれました。
 人生を楽しく生きる勘どころは、ここら辺にあるように思います。   合掌


    9月20日(月)が秋の彼岸入りです。26日(日)が彼岸明けとなります。そして、23日(木)が彼岸中日です。
    期間中は、お墓参りにお出かけください。

平成15年9月

 今年は、夏らしい夏が来ませんでした。夏を飛び越えて、一気に秋が来たようで、8月の中旬ごろから早くも秋の花が咲き始め
ました。それにしても自然は、哀れに思えるほど正直です。
 今年は、ここ数ヶ月の間に、29歳の若者の死、89歳のお年寄りの死、そして60歳の住職の死に出会いました。
 人間には、死んでちょうど良い「死に頃」という年齢があるものなのでしょうか。
 日本人は、近年急速に長生きすることになり、男性は78歳、女性の平均寿命が85歳となりました。これは世界のどの国よりも長寿であるとともに、日本人は、この記録を更新し続けています。
 「死に頃」は、平均寿命のあたりと考えることもできます。一般的には、そのような認識でもって死を語る場合が多いのではないでしょうか。
 「長生きして大往生だった。」というような場合は、平均寿命をはるかに超えた人の死を語る言い方でありますし、「もうちょっと居て欲しかった。」というような場合は、平均寿命を下回って亡くなった人のことを語る場合の言い方であります。
 しかしながら、このような言い方は、私たち凡夫の勝手な計らいであります。
仏教にも「死に頃」という考え方はあります。しかし仏教は、我々のような見方はいたしません。仏教では、何歳で死んでも「死に頃」なのです。
 私たちは、老若男女を問わず、誰でもみんな、明日を待つまでもなく、次の瞬間のことさえも分からないはかない命を生きています。そして、そのことをとやかく言っても亡くなった命は生き返りません。
 だから、蓮如上人は「老少不定」と言われました。これが、うそいつわりのない命の現実です。そして、この厳しい現実があることを、私たちは誰でも知っています。しかし、自分の事だとは誰も思っていません。ここから、人生を生きる態度に間違いが生まれます。自分だけは、早く死ぬことはないだろうと考えて、人生や人間、社会を間違って見てしまうのです。
 蓮如上人は、”人間は「老少不定」で、いつ死ぬか分からないのだから「後生の一大事」を思って念仏を唱えなさい。”と続けます。つまり、”「後生」には、地獄が待っているよ。”とおっしゃるのです。つまり、後生において地獄に堕ちないために、今すぐ、念仏の生活に入ることが大切であると上人は説いておられます。
 では、念仏の生活とは、どのような生き方なのでしょうか。
 それは、自分だけ長生きしようという勝手な計らいを捨てることです。自分も「老少不定」の運命の中にあり、その運命を引き受けて生きようとする覚悟の中に生きることです。
 この覚悟さえできれば、後生において地獄の苦しみを味わうことはありません。
そして、死ぬ年齢にこだわることもなくなります。
 「死んだ時が、死に頃。」と悟って生きれば、それこそ念仏を唱えなければ、その喜びと感謝の気持ちを表し得ない人生が開けるのですが、なかなかそれまでになれないのがまた人間の現実でもあります。               合掌。

【ことばの説明】
   凡夫………欲に迷って仏教の教えを理解しない人。
   蓮如上人…本願寺8世。
   老少不定…老人も年少の者も、いつ死ぬか決まっていないこと。
   後生………これから後の人生。死後に生まれ変わる所。

平成14年9月

中庭の秋海棠。茶花などでも使われる花だ
そうですが、当寺では、茶をする者がおりま
せん。遠い先祖で、茶に親しんだ人が植え
たのでしょうか。そうだとすれば、花を見る
目も変わって、懐かしい気持ちにもなります。
 浄土真宗では、「他力」ということばを使います。以前、新聞などのマスコミは、「他力本願」ということばをよく使いました。人に頼って何もせず、棚ぼた式のやり方や生き方を「他力本願」と言ったのです。これに、真宗教団は猛反発して抗議しました。「他力本願」とは、そういう意味ではないというわけです。しかしながら、その抗議は受け入れられませんでした。というのは、国語辞典には「人に頼って事を成すこと」という意味も出ているからです。そして、教団の「他力」の説明が難しすぎたということもあったようです。さらに、真宗の歴代の高僧たちは、信仰を「たまわりたる信心」ということばで表現してきました。「いただいた信心」という意味です。これでは、私たちの浄土真宗の信仰は、まったく何もしないで信仰を手にすることができるなまくらな人のための宗教だと勘違いされるのも無理はありません。
信仰は、簡単なものではありません。さらに、信仰をことばで説明するとなると、これもまた難しいことです。だから、ことばの表面的な意味だけで解釈されて真意が伝わらないということが起こりうるわけです。
 親鸞聖人は、「他力」について「他力と申し候は、とかくのはからひなきを申候なり。」と説明しました。「はからうこと」を無くするとは、損得とか勝敗、好悪などにとらわれる考えを捨てるということです。それが「他力信仰」であると言うのです。私たちの日常は、損をしたとか得をしたとか、好きだとか嫌いだとか、勝ったとか負けたとかなどと、喜んだりがっかりしながらの毎日です。そこが人生のおもしろさだと言えばそうとも言えますが、人生の苦しみは、損得・勝敗などにこだわる感情(はからい)から生まれます。その「はからい」の感情を捨て、離れることが「他力信仰」だと親鸞聖人は説くのです。しかし、この説明でも消極的な感じは否めません。そこで、越後の国の良寛和尚は、親鸞聖人の信仰を積極的なことばで表現しました。「災難にあう時節には、災難にあふがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」という説明です。つまり、「あるがままに生きる」ということでしょうか。それが、「他力」の信仰なのです。親鸞聖人にも、「他力にこゝろをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。」ということばがありますから、「他力の信心」と言うときは、決して後ろ向きの意味ではないことが分かります。棚ぼた式の信仰でもありません。むしろ、災難や困難、苦悩を積極的に受け入れて、それとまともに向き合って生きる態度が「他力」による生き方であると言えます。
 今日、経済不況による会社の倒産とかリストラで苦しい立場に立たされる人が多くなりました。親鸞聖人や良寛和尚の教えは、この苦しい現実から目をそらさず、逃げずに向き合うことが「災難をのがるる妙法」であると説きます。損得や勝敗などにこだわらず、「他力に身を投げる」つまり「苦しい現実に我が身を投げ込む」ことで、かえって新しい知恵を生み出し、活路が見えてくるのかも知れません。 合掌!