5月のおたより

2023(令和5)年・5月

 【 お寺の行事 】

  7月1日(土) 魂迎会  

             お斎(食事)は、感染状況を見て判断します。
             お斎を出せないときは、お斎に代わる品をお持ち帰りいただきます。

             当番 福嶋そうざ組

【 帰敬式(お髪剃り) 】

 4月2日(日)、極應寺と浄厳寺合同の帰敬式(お髪剃り)を行いました。
 14人の方が受式され、お釈迦さまの弟子となったことを意味する法名を受けられました。

 かつて、お髪剃りは、お葬式のとき、導師となる住職がお参りの人がいる前で棺の蓋を開けて行うことがありました。
 この様子を見慣れてきたため、生前のお髪剃りは死ぬ準備をすることで縁起が悪いと考えられるようになりました。

 昔は、お髪剃りを受けるには、京都の東本願寺まで出かけて門首から受けねばなりませんでした。
 今では京都の日帰りは可能ですが、それでも、ちょっと金沢あたりまで行ってくるというようなわけにはいきません。
 早朝の出発、道中にかかる長い時間、帰敬式を終えて、来たときと同じ時間をかけて帰ってくると夜中になります。
 こんな事情から、法名のないまま亡くなった方に、門首に代わって住職がお髪剃りをしたわけです。
 現在は、制度が変わり、地方の寺院でも受けられるようになりました。
 お髪剃りは、本来、生前に受けるものなのです。

 親鸞聖人は、生まれたときの名前が「松若丸」でした。
 9歳の時、慈円和尚のお髪剃りを受けて「範宴」という法名をもらいました。
 比叡山20年の修行を経て、法然上人に帰依したとき、上人から「綽空」の法名を受けました。
 その後、自ら「親鸞」と名乗るようになったと伝えられています。

 親鸞聖人は、生涯にわたって法名が3回変わっています。

     松若丸 ⇒ 範宴 ⇒ 綽空 ⇒ 親鸞

 また、現在、放送中の大河ドラマ「どうする家康」の徳川家康は、名字の変更も含めて4回変わりました。

   松平竹千代 ⇒ 松平元信(元服のとき)
           ⇒ 松平元康(蔵人佐に出世したとき)
           ⇒ 松平家康(今川家から独立したとき)
           ⇒ 徳川家康(従五位下三河守に叙任されたとき)

 親鸞聖人は、師匠が変わるごとに法名が変わりました。
 徳川家康は、出世するごとに名前が変わりました。
 また、出世魚と言われるブリも、当地では、

     コゾクラ ⇒ フクラギ ⇒ ガンド ⇒ ブリ

と、成長とともに名前が変わります。
 人間も、同じように人生の節目節目に名を変えればどうかと思いますが、そうはいきません。
 特別のことでもないかぎり、生まれた時にもらった名前のままです。
 唯一、可能なのは、法名をもらうことです。
 といっても、生まれた時の名前(俗名)を捨てることではありません。
 俗名と法名、2つの名前を生きることです。
 名前を変えることは、親鸞聖人、徳川家康のように、より充実することを期待して付けられます。
 法名は、人間成就を願って付けられる名前なのです。

【 青柏祭のころ 】

 5月の連休中、七尾で「青柏祭」が行われます。
 3基の曳山、たくさんの見物客や出店で七尾の街が沸き上がります。

 以前、七尾の親戚のお寺に頼まれて、門徒宅へ報恩講のお参りをしたことがあります。
 床の間に、大きなヘラのようなものが2本飾られてあります。

   これは何ですか?

と尋ねると、

   主人  青柏祭の曳山の辻回しに使う梃子(てこ)です。
       梃子の新調で、古いのは要らないと言うからもらってきました!

   奥さん おいね!
       おっちゃ父ちゃんな、祭り気違いで弱ったわいね!
       一年中、祭りのことばっかり考えとるげぞいね!
       「祭り」って聞いたら、何はさておいて飛んで行ってしまうげさかい!
       ほんとに、弱ったもんやわいね!

と、愚痴を言います。
 その口ぶりは、ほんとうに困っているようすでもありません。
 この奥さんも、祭りが好きなのだなと思いました。

 こんな熱い心があるから、伝わるのでしょう。
 何ごとも、心が冷めてしまえば伝えるべきものも伝わらず、しまいには忘れられてしまいます。    合掌

2022・5月

 【 お寺の行事 】

     7/1(金) 魂迎会

         * 「魂迎会」は、お盆に先立ってお寺で勤めるお盆を迎える仏事です。
           お斎(食事)の有無については、コロナの状況を見て決めます。

                  お誘い合わせてお参りください。

     なお、8月のお盆では、各家庭でお仏壇をお飾りし、家族・親族が集まって食事など楽しみながらご先祖を偲びます。

【 御崇敬厳修記念誌碑建立 】

 去る3月30日、極應寺境内に御崇敬厳修記念誌碑が建立されました。
 御崇敬は、毎年、羽鹿二郡のお寺を持ち回りで厳修されています。
 その順番も、だいたい決まっています。
 本来ならば、御崇敬の宿寺になることは190年に1回のことです。
 極應寺は、縁あって50年の間に2回も宿寺になりました。
 実行委員の中から、めったにないこのご縁を後世に伝えてはどうかと提案があり、話し合いの結果、記念誌碑を建てることになりました。
 前回の厳修は1973(昭和48)年、前住職のときでした。
 記念誌碑には、前回と今回の厳修期日と2人の住職の名前を刻み、さらに、今回の実行委員の集合写真を2枚石の板にプリントしました。
 今から234年前、能登の門徒たちは、焼失した東本願寺を建て直すため全国の門徒たちとともに粉骨砕身の労を尽くしました。 
 記念誌碑は、能登の門徒たちの心意気を伝える仏事が極應寺で営まれたことを後世に末永く伝えてくれます。


【 ルーティン  】

 「ルーティン」ということばがあります。
 「決まった手順」「お決まりの所作」「日課」といった意味です。
 人は、あることをするとき、たとえば、

    ・食事をするとき
    ・靴下や靴を履くとき
    ・風呂に入ったとき

など、何から始めるか順序がだいたい決まっているようです。
 食事ならば、汁を一口吸ってからご飯を食べるとか、その反対に、ご飯を一口食べてから汁を吸うというようなことです。

 以前、テレビで、風呂に入ったとき、どこから洗うかということを話題にしていました。

    ・首から洗う。
    ・頭から洗う。
    ・お腹から洗う。

など、人それぞれでした。

 かつて、大リーグで活躍したイチロー選手が打席に立ったときのルーティンは、

   1.バットを1回ぐるっと回して、
   2.バットを立てて左手をぐっと前にのばす。
   3.右手でユニフォームの袖を少し引っ張り上げ、
   4.右手の甲を口元に当てるようなしぐさをして、
   5.そして構える。

という順序でした。
 この個性的なしぐさがかっこいいことから、少年野球のこどもたちが真似しました。

 そもそもルーティンは、するかしないかも含めて人それぞれですが、自分なりのルーティンを守っている人が多いように見えます。

 なぜでしょうか。

 イチロー選手の場合は、気合いを入れて集中力を高めるためでしょう。
 かつて、大相撲の琴奨菊関は、制限時間を告げられ、塩を取って土俵に入るとき「琴バウアー」という胸をそらせるルーティンで観客を湧かせました。
 過度の緊張をほぐすためだったと思われます。
 また、ルーティンで縁起をかつぐ人もいるようです。

 実は、真宗門徒である私たちにも、決められたルーティンがあります。

   朝・仏壇の扉を開けて、お仏飯をそなえてお参りする。
   昼・朝おそなえしたお仏飯をお下げする。
   夕・仏壇にお参りして、扉を閉める。

 これが真宗門徒のルーティンです。

 かつて、京都の若林仏壇店が、

     朝に礼拝夕に感謝

という広告文で会社を宣伝したことがあります。
 「朝(あした)に礼拝(らいはい)夕(ゆうべ)に感謝」と読みます。
 仏壇にお参りして手を合わせることは、先祖の恵みをいただいて生きることに感謝する心を姿で表す意味があります。
 朝晩、仏さまに手を合わせるルーティンは、生きる力となります。 
                                            合掌!


2021・5月

 
歓 喜 光 院 殿 御 崇 敬 厳 修

2021(令和3)年10月29日(金)30日(土)31日(日)の3日間
                                                                 宿寺 当寺

 【 お寺の行事 】


  7月1日(木)魂迎会  

       魂迎会は、ご先祖を偲ぶお参りです。  
       お誘い合わせてお参りください。

【 「愛語」に勝る 】

     こどもらと 手まりつきつつ この里に

                    遊ぶ春日は くれずともよし 


 江戸時代の終わりごろです。
 新潟県に、良寛という風変わりな禅僧がいました。
 「越後の良寛さん」です。

 良寛は、お寺を持ちませんでした。
 五合庵という粗末な家に住んで、あるときは子どもらと鞠つきや隠れんぼしたり、時には、人に求められれば書を書きました。
 また、説法らしい説法はしませんでした。
 質素な生活ぶりや生きざま、折りにふれて語ったことばが、そのまま説法となり、人々を教え導きました。

 良寛の語ったことばを集めた「良寛禅師戒語」があります。
 「言うべからず集」です。

    人のいやがるも知らず長ばなし

    オレがこうしたこうした

    おのが氏(うじ)素性の高きことを人に語る

    学者くさき話

    知らぬことも、知ったげにもの言う

    にくき心を持ちて人を叱る

    若い者のむだ話
    おかしくもなきことを笑う

    老人のくどき

    かえらぬことを、くどくどくどく

    言い足らぬことは、また継(つ)ぎても言うべし。
    言うたことばはふたたびかえらず。
    ことばの過ぐるはあいそなし。

    神仏のことは 軽々しく沙汰すべからず

    あくびとともに念仏

などなど、100項目ほどあります。

 口は災いの元。
 不用意に言ったことばが、相手との距離を遠くすることもあります。
 長話も、禁物です。

 「戒語」の反対は「愛語」です。
 「愛語」は、思いやりの心こもったことばです。

 良寛に、馬之助という甥がありました。
 良寛が生まれた家の跡取り息子です。
馬之助は真面目にはたらかず、遊んでばかりでした。
 困った母親から、

     良寛さん! ひとつ意見してやって下さい!

と頼まれました。
 良寛は、生家に三日泊まりました。
 しかし、その間、意見らしい意見はひとつも言いません。
 
     どれ帰るか!

と玄関に出た良寛は、馬之助を呼んで、

    馬之助!
    オレの草鞋の紐を結んでくれ!

と頼みました。
 馬之助は、良寛の足元にかがんで、紐を結んでいるとき、首筋に、ポタリと落ちるものがあります。
 びっくりして見上げると、良寛が涙の目をしばたいて馬之助を見ています。
 そのとき、馬之助は、ハッとさとるものがありました。
 やおら立ち上がった良寛は、何も言わず帰って行きました。
 以来、馬之助の放蕩は、ぴたりと止みました。
 良寛は、一言も言わず、馬之助を立ち直らせたのです。
 良寛の落とした涙が意見であり、説法でした。
 
 越前の永平寺を開いた道元禅師のことばに、

     愛語ハ愛心ヨリオコル。
     愛心ハ慈心ヲ種子トセリ。
     愛語ヨク廻天ノ力アル…

とあります。
 道元禅師は、「慈心」という種から「愛心」が芽生え、「愛心」から「愛語」が生まれると教えました。
 良寛の涙は、「愛語」に勝る教えとなりました。
                                            合掌!

2020・5月

 【 お寺の行事 】

 (予定) 7月1日(水) 魂迎会 当番 福島(そうざしんたく)組

【 後生(ごしょう)の一大事 】

 このほど厚生労働省は、若者向けコロナウイルス感染予防啓発ロゴ(左図)をホームページ上で公開しました。
 健康な若者は、ウイルスに感染しても発症する割合が低いため、不用意な行動によって、知らないうちに多くの人に感染を広げてしまう危険性があるからです。

 ロゴには、

   こちらのロゴは、ご家庭や学校、職場において自由にお使いください。

と説明書きが添えられています。
                  
 啓発ロゴには、「アマビエ」という妖怪のイラストが入っています。
 「アマビエ」は、弘化三(1847)年、肥後の国(熊本県)の海の中で光っているのを役人が見つけ、絵に描いて江戸幕府に報告されました。
 報告書(右図)には、「アマビエ」のイラストとともに、

   私は海に棲むアマビエというものだ。
   当年より六ケ年の間は諸国豊作になるが、疫病も流行るから、私の姿を写して人々に見せなさい。

と言って海の中に消えたと書かれてありました。
 「アマビエ」が予告したとおり、4年後には江戸でインフルエンザが大流行し、幕府は窮民に米を配給しました。
 また、11年後には長崎でコレラが発生し、またたく間に九州、大阪、京都、江戸にまで広がり、多くの人が亡くなりました。
 このことから、「アマビエ」は疫病流行の予告と予防の妖怪として注目されるようになりました。
 といっても、「アマビエ」が出現してもしなくても、人類は昔から疫病に苦しめられてきました。

 「アマビエ」の報告から70年後、「スペイン風邪」が世界で大流行しました。
 日本では大正7(1918)年から10(1921)年にかけて流行し、3年間で、のべ2,300万人が罹患し、38万人が死亡する大惨事になりました。
 当時、日本の人口は5,500万人ぐらいですから、実に日本人の半数以上が罹患したことになります。

 神戸新聞は、このときの惨状を、「累々遺骸の山」という見出しで、

    兵庫県では1日平均約200人が死亡している。
    火葬が追いつかないため、棺は野ざらし状態で無造作に積まれ10日も15日も放置されている。

と、火葬場の機能がマヒしていたことを伝えています。
 また、こうした惨状の一方で、第一次世界大戦(1914~1918)の終結記念式典が神戸市内で行われ、神社の縁日がにぎわっているニュースも掲載されていますから、感染拡大防止の取り組みが徹底されていませんでした。
 政府内務省は、感染予防ビラを作って啓発に努めたましたが、まったく効果がなかったわけです。
 予防ビラには「流行性感冒」という文字と「手當が早ければすぐ直る」ということばが書かれてありましたが、「スペイン風邪」流行を、感染していない人は「対岸の火事」としか見ていなかったようです。
 もし「スペイン風邪」流行を「隣の火事」と見たならば、向こう岸から腕組みして見ているような事態にはならなかったでしょう。

 このことで思うことがあります。

 蓮如上人は、「後生(ごしょう)」ということばをよく口にされました。
 「後生」とは、「将来」「未来」という意味です。
 「将来」「未来」といっても、「後生」は仏教用語ですから、「これから先」という意味と「死んだ後の境涯」という意味も含まれています。
 上人は、「後生の一大事」ということばで、今起こっている現実を、自分には関係ない「対岸の火事」と見るのでなく「隣の火事」として身を慎まねばならないと説きました。

 そのことばが、

    …されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
    たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

 念仏を称えることでした。
 (このことばは、お勤めの赤本67Pから始まる「白骨のお文」の中にあります。)

 「念仏もうすこころ」とは、極端に怖れることなく、そうかといって、あなどることもなく、「正しく怖れるこころ」です。

                                                                        合掌

2019・5月

 【 お寺の行事 】

         5月28日(火) 親鸞聖人ご命日

         6月28日(金) 親鸞聖人ご命日

         7月 1日(月) 魂迎会 

              お誘い合わせてお参り下さい。

【 和を以て… 】
      
 紙幣が新しくなるという発表がありました。
 
 これによって、お札の顔も変わることになります。
 聖徳太子は、かつては「聖徳太子!」と言えば、高額紙幣を意味するほど紙幣を代表する顔でした。
 聖徳太子の肖像は、長く紙幣の顔として使われてきました。

 新しい紙幣の顔となる人物も発表になったことに合わせて、「誰に、紙幣の顔になって欲しいか?」アンケートした結果があります。

    1位は平成天皇
    2位が坂本龍馬
    3位がイチローと聖徳太子

 以下、湯川秀樹などとなったそうです。
 聖徳太子は、いまだに人気があります。
 その理由は、十七条憲法を定めたり、日本に大陸文化をもたらし仏教を広めたことなどで、よく知られているからのようです。

 十七条憲法は、法律というより、人の道を説いた教訓のような内容になっています。

 第十条は、「腹を立てる」ことについて、

    …人には、それぞれの考えがある
    ゆえに、人が「良し」とすることを自分は「悪い」と思い、自分が「良し」とすることを、
   人は「悪い」と言うことがある。
    自分は聖人でもなければ、人が愚人なのではない。お互いに、凡人にすぎないのだ。
    ……
    これによって、人が腹を立てていたら、自分が間違ったことをしたのではないかと反省し、
   独りよがりにならず、人の意見をよく聞いて、一緒に仲良く行動しなければならない…
 
と謳っています。
 人間の本性は立派なものでないがゆえに、立派でない者が腹を立てれば人格が乱れ、人格が乱れれば家庭が乱れ、家庭が乱れれば社会が乱れ、社会が乱れれば、あちこちで争いが始まり、ひいては国家が危うくなります。
 聖徳太子は仏教学者でもありましたから、人間の本質をよく見抜いています。
 このため、十七条憲法の最初に、

    一に曰く、和を以て貴しとし…

と争いのない「和」の国家建設を宣言しました。
 
 そして、今回の新元号にも「和」が使われています。
 元号は、これまで247回変わっています。
 元号に使われた漢字は、全部で71文字あるそうですが、「永」「治」「長」などがよく使われました。
 これらの漢字に続いて多いのが「和」です。

 ところで「和」は、お経の中にも出て来ます。
 お釈迦さまが、弟子の阿難に、極楽浄土のありさまを説いたことばの中にあります。
 
   仏の言わく、

   …その国土には、…春秋冬夏なし。寒からず暑からず。常に和(やわら)かにして調適なり。 

    (意味)…極楽浄土には、…春夏秋冬という季節がない。
        いつも穏やかでまことに過ごしやすい所である。

 極楽浄土は、どこかにそんな世界があるという話ではありません。
 人間の心の中に開かれる精神世界のことです。

 仏教は、人の心の中に「和」の世界を開くことを目指しました。
 一方、人間は、この現実世界に、お経に説かれる「和」のある社会を実現することを目指してきました。
 この聖徳太子以来の「和」を求める人間の歩みが、尊いのです。
 
 人間の世界は、

   …鐶(みみがね)の端(はし)無きが如し。  (十七条憲法 第十条)

 イヤリングは、丸く輪になっているので、どこが先か端か分かりません。
 同じように、人間のすることも、どこまでが「和」でどこまでが「不和」なのか切れ目がありません。
 それでも、人は「和」を求め続けます。

 俳人、川端茅舎は、
 
       ぜんまいののの字ばかりの寂光土

と詠みました。

 春の山菜ゼンマイの芽の形も、鐶(みみがね)に似ています。
 春の林の日だまりに、静かにひとかたまりになって芽吹くぜんまいを見た川端茅舎は、そこら一体を「寂光土」、つまり極楽浄土と感じました。
                                           合掌


2018・5月

 【 お寺の行事 】

        6月28日(木) お講 午前8時 

        7月 1日(日) 魂迎会 当番 谷口組
                 

          お誘い合わせてお参り下さい。

【 立禅(りつぜん) 】

 戦後の俳壇を牽引してきた金子兜太さんが、98歳で亡くなりました。
 金子兜太さんは、「花鳥諷詠」を伝統としてきた俳句の現代化に取り組み、俳句をとおして、人間の生きることと死ぬことを見つめてきました。
 金子さんの死生観は、

  「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ

という句によく表れています。

 友人が亡くなったとき、蓮如上人の「白骨のお文」にある「…朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。…」を踏まえて詠みました。

 この句のこころは、親しい人が死んだからといって、今は悲しいけれど、それは一時のことであって、また会える。それは、遠い先の話ではない。だから冷や酒で一時の悲しみを紛らわすようなことはしないといったところでしょうか。

 こんな死生観を持つ金子さんは、晩年、「立禅」を始めました。 
 「立禅」とは、立ったままでする瞑想法のことで、座禅に似ています。
 座禅は座ってしますが、「立禅」は立ってする座禅と考えていいかもしれません。

 金子兜太さんの「立禅」は、他の人と少し違っています。
 金子さんいわく、

   私は毎朝、神棚の前で、死んだ人の名前を唱え、みんなと向き合う「立禅」を続けています。
   時間にして30分弱。やらんとその日は眠られないのです。
   私は無神論者ですが、…神棚の前で名前を唱えると、気持ちも体もスーッとしてくる。これが私流の「立禅」。
   いまのところ全部で130人くらい、続けていると気持ちがいいので、毎朝繰り返しています。
   …やり方はまったく自己流。
   立ったまま、座禅のように手を丹田(たんでん)のところで組んで、目をつぶって、小さく名前を唱えていく。
   それだけ。
   すると不思議なことに、亡くなった人たちの顔が浮かび、喜んでいる顔と再会しているような気がする。
   こっちも元気になります。
   こうして毎朝、「立禅」で亡くなった人たちと交流するんです…。

 「立禅」をすると、

   ・気持ちも体もスーッとする。
   ・亡くなった人と再会している気になる。
   ・よく眠れる。

 どうして、こんなことになるのでしょうか。

 たとえば、二つの輪があって、一部分重なっていると思ってください。

 輪の左の部分を、「人間の世界」とします。仏教的な言い方をすれば、煩悩の世界、此岸(しがん)、こちら側です。
 右の部分を、「仏さまの世界」とします。真実の世界、彼岸(ひがん)、あちら側です。
 輪が重なった部分は、「人間の世界」と「仏さまの世界」の両方を持った領域です。  

 金子さんの「立禅」は、亡き人の名前を唱えることで、心が、此岸から、重なった世界へ移行します。
 この世界へ行くと、彼岸の世界が見えます。
 「仏さまの世界」、真実の世界がよく見えます。
 すると、真実の世界は、特別なことではなく、亡くなった人と、また会える世界だと知らされます。

 金子兜太さんは「立禅」によって、仏さまの世界を垣間見たことで、生きることが楽になりました。

 人は、歳を重ねれば、数々の死に出逢います。
 出会っているうちに、生きることと死ぬことを深く考えるようになります。
 そして、その人なりの死生観が生まれます。

 金子さんは、亡くなる直前まで俳句を作りました。
 最後に詠んだ9句の中に、

    河よりかけ声さすらいの終わるその日

があります。
 金子さんは、「立禅」によって、河を隔てた仏さまの世界、彼岸から、先に逝った親しい人たちの呼び声を聞いたのではないでしょうか。
 そして、亡くなりました。

【 見方 】

 ものは、見る方向によって、同じものでも違って見えます。
 たとえば、四角錐があるとします。
 四角錐は、横から見れば△に見えます。
 上から見れば□に見えます。
 同じものを見ても、見る角度を変えれば、違うものに見えてきます。
 
 人生も同じです。

 俳句のこころで見るか、川柳で見るかで、詠まれる句も違ってきます。
 「長寿」というテーマで詠んだとします。
 俳句で詠めば。

    陽だまりのごとおだやかに生きたかり  藤田京子

となります。
 また、川柳で詠めば、

    美人湯やめて長寿湯へ通ふ       津ちょちよ

となり、趣や味わいもずいぶん異なってきます。
 さらに、

    手をつなぐ仲良しじゃないの介護なの  りこぴん 

という川柳もあって、見方を変えれば、色んな形が見えてきます。  合掌


2017・5月

 【 お寺の行事 】

           6月  日( ) お 講  当番 道辻組

           7月 1日(土) 魂迎会  12:00 おとき    
                     13:00 お参り
                     当 番 土肥組

                 お誘い合わせてお参り下さい。

【 数珠 】
      
 数珠は、お参りの必需品です。

 数珠には、どういう意味があるのでしょうか。

 仏さまは、数珠を持っていません。
 お釈迦さまも、数珠を持ちません。
 東南アジアのお坊さんたちも、持ちません。
 日本では、禅宗系のお坊さんも、数珠を持ちません。

 その理由は、仏さまは拝まれる側ですから、持つ必要がないのです。
 お釈迦さまは、仏さまと同じさとりを開いた最初の人であることから、「釈迦如来」と呼ばれるようになりました。仏さまと同格扱いです。
 また、東南アジアのお坊さんたちは、お釈迦さまと同じ修行をしていますから、お釈迦さまにならって、数珠を持ちません。
 日本の禅宗系のお坊さんも同じです。
 
 日本では、禅宗系以外のお坊さんと在家の人たちが、数珠を持ちます。

 数珠は、「念珠」とも言います。
 仏さまを「念ずる」回数が多ければ、功徳があるという考えから、回数を数える仏具として数珠が使われるようになりました。
 『仏説校量数珠功徳経』というお経によれば、数珠は、念仏を称えながら繰るために用いると説かれています。
 また、数珠の玉は、108を標準とするが、半数の54でも、さらにその半数の27でもよいとも説かれます。

 京都に、「百万遍」という所があります。
 その地にある浄土宗・知恩寺の住職が、念仏を百万遍称えたことから、百万遍と呼ばれるようになりました。
 知恩寺では、現在でも、大勢の人が、大きな数珠を繰りながら、念仏を称える仏事が行われています。

 数珠は、もとは繰るものでした。

 親鸞聖人のお姿は、どれも数珠を繰り、微音で念仏を称えている姿に作られたり、描かれたりします。

 そして、数珠は、繰る仏具という考えから、数珠そのものに功徳があると考えられるようになりました。
 数珠の玉に、水晶や琥珀、瑪瑙などの宝石、また菩提樹や蓮の実が使われるのは、そのためです。宝石、菩提樹や蓮の実は、仏さまの教えの象徴です。
 数珠を持ち歩くことは、教えとともにあることになります。
 教えとともにあれば、心が正され、生活も整えられ、やがて、教えが、その人の徳となって身に備わります。

 数珠を持ったまま夫婦喧嘩する人はいないでしょうし、念仏称えながら、悪いことをする人はいないのです。

【 ギバー 】

 アメリカの学者、アダム・グラントは、「人間には、3つのタイプがある」と言います。

 ・ギバー………人に惜しみなく与える人

 ・ティカー……真っ先に、自分の利益を優先させる人

 ・マッチャー…損得のバランスを考える人      

 この3つのタイプのうち、「あなたは、どのタイプですか?」と尋ねると、「自分は、マッチャーだ!」と答える人が多いそうです。

 しかし、アダム・グラントは、「マッチャー」や「ティカー」では、仕合わせになれないと言います。
 なぜならば、「マッチャー」は、「ギブ・アンド・テイク」の人ですから、「オレがしてやったものより、返ってくるものが少ないじゃないか!」という不満が、絶えずつきまといます。
 また、「ティカー」は、自分が儲けることで、損をする人がでることなど考えませんから、人と良い関係は作れません。
 3人のうちで、最も仕合わせなのは「ギバー」だと言います。
 「ギバー」の人には、「マッチャー」や「ティカー」の損得勘定はありません。
 相手に施すことを先に考える人ですから、損得感情がないのです。

 昔、大和の国に清九郎という篤信の念仏者がいました。
 清九郎は、農業のかたわら、薪を作って、町へ売りに行きました。

    客 その薪は、いくらだ?

    清 3文です。

    客 それは高い。2文なら買う。

    清 では、2文で売りましょう。

 清九郎は、お客の言い値で売りました。
 どのお客にも、客の言い値で売りました。
 やがて、清九郎のあまりの欲のなさに感心したお客さんたちは、清九郎の言い値を値切らなくなりました。
 清九郎は、「お客さまファースト」の「ギバー」の人でした。
 お客さんを喜ばせ、我が身は、念仏を喜ぶ妙好人でした。           合掌


2016・5月

 【 お寺の行事 】

            6月      お 講  当番 谷口組

            7月1日(金) 魂迎会  当番 福島(そうざ)組

                 皆さん、お揃いでお参り下さい。

【 レッドカード時代 】    
               
 サッカーの試合などで、審判が、悪質な反則をした選手に、レッドカード(赤い札)を見せて、退場させることがあります。
 レッドカードは、審判が、選手に退場を命じる重い処分です。
 退場させられた選手は、競技を続けることができなくなります。
 このことから、「レッドカード」という言い方が、一般社会の活動にも比喩的に用いられるようになりました。
 たとえば、企業が不正をした場合、社会から、レッドカードが突きつけられます。
 レッドカードを出された企業は、大きなダメージを受けます。
 また、芸能人が不道徳なことや非社会的なことをした場合、世間から「レッドカード」が出されます。
 女優の「ベッキー」さんやタレントの「みのもんた」さんなども「レッドカード」を出されました。
 その結果、芸能界から退場状態になりました。

 不正、不道徳、非社会的なことは、するほうが悪いに決まっています。
 また、非難されて、当然のことです。
 が、謝罪しても、それを認めず、反省の余地も立ち直るチャンスも与えることなく、徹底的に非難して、再起不能にまで追い込む風潮のことを「レッドカード時代」「レッドカード社会」と言うようになりました。

 レッドカード社会の特徴は、情け容赦なく、言いたい放題に、相手を口撃するところにあります。
 そして、言いたいだけ言って、自分の発言に責任を取ることはありません。

 非難する人は、完璧な人間なのかというと、そうではありません。
 世の中に、完璧な人間など、どこにもいません。
 善もあれば、悪もはたらく、善悪混在した不完全な存在が人間というものの本質です。
 レッドカード社会の問題点は、不完全な人間が、自分のことを棚に上げて、相手に、いささかの「ゆるし」も与えないことにあります。
 この風潮は、誰も仕合わせにしません。
 非難された人は、打ちのめされて立ち上がれなくなります。
 また、非難した人は、言いたいだけ言って、一時は、胸がスッキリするかも知れませんが、言ったことで、自分自身は何も変わりません。
 さらに、周りの人たちを、不愉快にします。

 先の戦争が終わったあと、サンフランシスコ講和会議で、日本の戦争賠償を求める国が相次ぎました。
 そんな中、スリランカ(旧セイロン)は、日本に補償を求めませんでした。
 その理由は、

   怨(うら)みに報(むく)いるに、怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。

というお釈迦さまのことばでした。
 スリランカは、日本に対する怨みを捨てて、「ゆるし」てくれたのです。
 この「ゆるし」によって、日本は立ち直りました。
 日本は、現在でも、スリランカ発展のために融資を続け、友好な関係にあります。

 「ゆるし」は、反省する余地を与えることです。 
 このことで、立ち直るチャンスを与える、これが「ゆるす」ことです。
 私たちは、誰でも、胸に手を当ててみれば、「ゆるしてもらった」ことは、一度や二度ではないはずです。
 「ゆるされて」生きていることを忘れると、人間は自分勝手になり、人に迷惑かけるどころか、我が身の人格まで堕(お)としめてしまいます。

【 はてな? 】

 すったもんだの挙げ句、ようやく東京五輪のエンブレムがA案に決まりました。

 「はてなの茶碗」という落語があります。

 油売りの男が、清水寺の前の茶店でお茶を飲んでいると、隣りで茶道具屋の金兵衛さんがお茶を飲んでいます。
 金兵衛さんは、飲み終わった茶碗を、のぞき込んだり、ひっくり返したり、かざしてみたり、色々とひねくり回して、

    はてな?

と一言、お金を払って店を出て行きました。
 これを見ていた油屋は、金兵衛さんがあれだけ熱心に見ていた茶碗だから、そうとう値打ちのある茶碗にちがいないと思い、その茶碗を二両で買って帰りました。
 油屋は、茶碗を金兵衛さんのところへ持ち込んで、五百両で買ってくれと迫ります。
 世間では、金兵衛さんが「この品は!」と指一本差しただけで、十両の値が付くと評判されているから、あれほど、ためつすがめつ眺めていた茶碗ならば、五百両、千両の値打ちがあるにちがいないという理由です。
 金兵衛さんは、

    あれは、一銭の値打ちもない安物の茶碗だ。どこも割れたところがないのに漏れるので眺めていただけだ!

と答えます。
 がっかりしたのは、油屋です。
 二両、損してしまいました。
 気の毒に思った金兵衛さんは、三両で買ってやります。

 ところが、どこも割れたところがないのに漏れる茶碗の話を聞いた関白さまが、

    見たい!

とおっしゃり、お見せしたところ、

    なるほど、おもしろい茶碗だ!

と言って、一首の和歌を添えて、金兵衛さんの元へ返されました。
 関白さまが和歌に詠まれた茶碗のうわさを聞きつけた鴻池善右ヱ門が、

    ぜひ、売って欲しい!

と言って、千両で買いました。
 安物の茶碗が、とうとう千両で売れたという話です。

 東京五輪のエンブレムは、当初4案示されました。
 ほとんどの人は、A案は地味だから選ばれないと思っていました。
 しかし、A案に決まってみれば、他の3つの案より一番良いように見えてくるから不思議です。     合掌


2015・5月

【 お寺の行事 】 

         6月 未定  お講   午前8時 お勤め
                       9時 おとき
                       当番 石川・谷川組 

                 みなさんお誘い合わせてお参りください。

【 命の花 】

 青森県の三本木農業高校では、殺処分され焼却された犬や猫の骨を土に混ぜて、花を育てる活動をしています。
 生徒たちが、動物愛護センターを見学したことがきっかけになりました。
 動物愛護センターでは、ペットとして飼われていた犬や猫などを殺処分して焼却していました。
 生徒たちは、人間の都合で殺される動物たちの様子を見て、

     もっと長生きしたかったろうに!

と、心を痛めました。

     何とかできないか?

 考えた生徒たちは、骨を土に返して、その土で花を育てることを思いつきました。
 育てた花は、地域のイベントなどで、住民に配っています。
 名づけて、「命の花プロジェクト」。
 当初は、

     動物の骨が入っていて気持ち悪い!

     教育現場としてはいかがなものか?

という批判もありました。
 それでも、生徒たちは、地道に活動を続け、今では、地域の人たちも理解してくれるようになりました。

 仏教では、「五戒」という教えがあります。
 人間として、してはいけないことが五つあるという戒めの教えです。
 その最初が、「不殺生戒」。
 「殺すな!」という教えです。
 たとえ小さな虫であっても、生きとし生けるものすべてに、命がそなわっており、その命を、人間の都合で殺したりすることは許されないという戒めです。

親鸞聖人が、

      …一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。…

と言われたのも、この教えから出たことばです。
 「一切の有情」とは、すべての生きとし生けるものという意味です。

 「有情」は、命終えれば、皆、土に帰ります。
 その大地から、新しい命が芽吹き出します。
 新しく芽吹いた命は、土に帰った「有情」の生まれ変わりと言えるでしょう。
 その命を、別の命が食べます。
 別の命は、さらに別の命に食べられます。
 生物学では「食物連鎖」と言いますが、一切の「有情」は、このような命の循環の中で、生まれては死ぬことを繰り返しています。
 この繰り返しは、地球上に生物が発生して以来、ずっと繰り返されてきました。

 この連続の中で、いつの間にか、人間も、犬や猫も、虫けらも、草花や植物も、そのほか生きとし生けるものは、皆、親戚、親兄弟の関係になってしまいました。
 人間と蛙は親戚であり、人間と大根も親戚なのです。
 このことを深く思った親鸞聖人は、「生きとし生けるものは、生まれ変わり死に変わりしているうちに、皆、父母兄弟の関係になってしまった」と言われたのです。

 現在、日本では、年間、食べずにゴミとして捨てられる食品が500万t〜800万tあるそうです。
 これを世帯数に換算すれば、1世帯あたり、年間、約100kg〜150kgの食べられる食品を捨てている計算になります。

 人間の都合で、処分し、捨てられるのは、犬や猫の親戚たちだけではありません。
 食物の親戚たちも、捨てられています。
 捨てて、何の痛みも感じないのが、人間ばかりであります。
                         
【 終活 】

 入院した人が、病棟に貼ってあったのを書き写して、持ってきてくれたことばです。

       私ね 人から
       やさしさを貰ったら心に貯金しておくの
       さびしくなった時は、それを引き出して元気になる
       あなたも今から積んでおきなさい
       年金よりいいわよ  

 今、「終活」ということが、よく言われています。
 「終活」とは、「人生の終わりに向けた活動」の略語で、人生の終わりに向けてしておくべき行いのことです。

 一般的には、自分の葬式のこと、死んだら入るお墓のこと、財産の相続をどうするかなどを決めておくことが考えられているようですが、一つ、抜けていることがあります。
 死んだら、どこへ行くのかという問題です。

 「死んだら終わり!」と考えている人が多いと思います。
 確かに、この世は終わりです。

 昭和40年代までは、お寺のお参りも多く、説教も盛んでした。
 そのころ、説教を聞いたお婆ちゃんが、インタビューに、

    ”死ぬことは、怖いと思わんわいね。お説教聞いたから!
     …お阿弥陀さんからお迎えを受けて、そして、連れられてお浄土にお参りするってわけですがね!
     怖くないですね。嬉しくて楽しいですわ。はい、有り難いですよ。心残りないですね…!”

と答えています。

 昔の人は、お金の財産より、心の財産を増やすことを考えました。
 心の財産は、次に希望を持たせる心の宝となりました。
 年金はたくさん欲しいですが、持っては行けません。
 心の財産は、荷物にはならないのです。                    合掌
 


2014・5月

 【 お寺の行事 】

        6月 お講   当番 土肥組

        7月 1日(火) 魂迎会 当番 谷口組

            ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

【 寂光土 】

 野山の草木も芽吹き、万物の精気躍動する季節を迎えようとしています。 
             
     ぜんまいののの字ばかりの寂光土
                                    川端茅舎

 この俳句は、山あいの道を散歩していた作者が、道ばたに生えているぜんまいを見つけたときの感動を詠んだものです。
 ぜんまいの芽は、ひらがなの「の」の字に似ています。 
 「の」の字ばかりが群がって生えていることから、「ののさま」ということばを思い出しました。
 「ののさま」とは、仏さまのことを言う幼児語です。
 「の」の字から「ののさま」、「ののさま」から「寂光土」、つまり極楽浄土を連想したのです。
 ぜんまいの生えているあたりのたたずまいに、極楽浄土のような落ち着いたほのぼのとした静けさがありました。
 川端茅舎は、道ばたに芽を出したぜんまいの一叢を見て、極楽浄土の仏さまがこの世に現れたように感じたのです。

 作家の出久根達カさんは、茨城県の田舎の生活保護を受けて暮らす貧しい家に生まれました。
 中学卒業と同時に、職業安定所の斡旋で東京へ出ました。
 就職先は、古本屋さんでした。
 一年後、就職を世話してくれた職業安定所のおじさんが、勤め先に訪ねてきました。うまく働いているかどうか見に来てくれたのです。
 夏の暑い盛りの時でした。
 店の主人に呼ばれて行ってみると、主人は安定所のおじさんと話していました。
 お茶うけに水蜜桃が出されました。
 主人に、

     ”遠慮するな!”

と言われて、汁をしたたらせながら、かぶりつきました。
 しばらくして、安定所のおじさんは、

     ”ほかに回るところがあるから!”

と言って立ち上がりました。
 立ち上がるとき、

     ”これ、いただきます!”

と言って水蜜桃を一つ掴んでポケットに入れました。
出久根さんは、店先まで見送りました。
 安定所のおじさんは、隣の店を通り過ぎたところで振り返り、出久根さんを手招きしました。
 近寄ると、店かげへ連れて行って、

     ”これ、食え!”

と言って、さきほどの水蜜桃をポケットから出しました。
 そして、出久根さんが人目に付かないように、通りに面して立った安定所のおじさんは、

   ”ご飯は、腹いっぱい食べさせてもらっているか、給料は上がったか?”

などと、聞いてきました。
 出久根さんは、ご飯は腹いっぱい食べさせてもらっているし、給料も上がったことを報告しました。

 安定所のおじさんは、満足して帰って行きました。

 昭和30年代半ばごろの話です。
 当時は、中学を卒業した田舎の子どもたちが、夜行列車に乗って集団就職で都会へ出てきました。
 出久根さんも、その一人だったのです。
「生き馬の目を抜く」と言われる気を抜くこともままならない都会生活の中にも、その一角だけがほっとするようなほのぼのとした「寂光土」のような心のつながりがあったのです。
 出久根さんにとって、生涯忘れることのできない出来事となりました。

【 心の泥 】

 ユダヤ人が伝える話だそうです。

 ある街に、道を挟んで向かい合う二軒の肉屋がありました。
 どちらの店にとっても、向かいの店は、商売敵です。

 ある日、一軒の店先に神様が来て、

  ”お前の願い事は何でも叶えてやる!”

と言いました。肉屋のおやじは大喜びです。
 神様は付け加えました。

  ”ただし、お前の願うことの二倍が前の肉屋にもかなうことになる。お前が一億円儲ければ、前の肉屋は二億円もうけることになるぞ!”

 これを聞いた肉屋のおやじは考え込んでしまいました。
 そして、おやじは神様に尋ねました。

  ”神様、どんなことでもかなうのでしょうか。それならば、私の片目をつぶしてください。そうなれば、向かいの肉屋のおやじは両目がつぶれて見えなくなり、商売ができなくなります!”

 人間の心の奥にある泥のような汚さを言い当てた話です。       合掌


2013・5月

【 お寺の行事 】

     6月       お講  当番 土肥組

     7月 1日(月) 魂迎会 当番 谷川組

      ご家族みなさん連れ立ってお参りください。

【 春耕 】
         春耕の 田や少年も 個の数に    
                         飯田竜太

 昔の農繁期は、猫の手も借りたいくらい忙しく、一家総出でも人手が足りず、隣近所・親戚まで手伝い、大勢の人が集まって、祭りのような雰囲気もありました。
 子どもたちは、貴重な労働力でした。
 大人に混じって、けなげに働く子供の姿を目にした俳人が、上記のような俳句を詠みました。
 現在は、機械化が進んだことで、人手も少なくて済み、農作業のにぎわいはなくなりました。
 農業の「たのしみ」という点では、昔ほどでないのかも知れません。

 かつて、富来西海から出た加能作次郎という作家がいました。
 明治に生まれ、大正・昭和と活躍した自然主義文学の作家でした。
 自然主義文学とは、自分の身の回りに起こったことをありのままに書く文学のことです。
 作次郎は、自分の子ども時代のことも含めて、身辺に起こった出来事を記録するように作品にしました。
 作品を読むと、当時の人たちの生きざまがよく分かります。
 『汽船』という作品には、春先の畑で、麦の土寄せをする2人の女の人のことが書かれています。

     女1  いい日和やがいね!
     女2  嬉しやな、暖うならっしゃいまして!
     女1  これから毎日、こうやって畑するがかいね!
     女2  そうや、そうや。お天道さまさえ照ってくんさえますと。
          有り難いことね、沖は凪ぐし、畑ができるし。なんまんだぶ、なんまんだぶ!
     女1  なんまんだぶ、まんまんだぶ!

 2人は、念仏を称えながら畑仕事に精を出します。
 昔は、生活の中に念仏がありました。
 お寺に参っているわけでもなく、仏壇に手を合わせているわけでもないのに念仏が出たのです。
 生きることの深い思いや気分が、「南無阿弥陀仏!」という念仏になりました。

 蓮如上人は、「それ、南無阿弥陀仏という文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきまわりなきものなり」と示してくださいました。

 昔は、今よりはるかに貧しく、不如意なことも多々ありました。
 それがもとで、言わなくてもいい愚痴が出たり、起こさなくてもいいもめごとが起こったりしたことと思われますが、そんな生活の中にも、念仏は、この現実を乗り超える力として、「無上甚深の功徳と広大な利益」を持ったことばとして、人々に受け入れられていたのです。

 その念仏の声が、久しく絶えてしまいました。
 しかし、私たちは、念仏に代わることばを持っているわけではありません。
 現代は、息苦しい時代だと言われています。
 息苦しいのはいつの時代でも同じです。
 その息苦しさを超えて生きる力となることばを持たないことが、出口の見えない息苦しさを余計に強めているように見えます。
 
 念仏は、感謝のことばです。
 どんな生活の中であろうと、その中に感謝のたねを見いださしめ、感謝して生きる道を開いてくれるのが念仏です。

 そんなことばを失った私たちは、まことに不幸なことだと言わざるを得ません。

【 仏壇 】

 石川県出身の女優、田中美里さんが出演するテレビコマーシャルに、外国人が金沢の民家を訪れ、家の中にある仏壇を見て、
 
    家の中に教会がある!

と驚くシーンがあります。

 こんな発想は、外国人にしか思いつかない発想です。
 この外国人は、キリスト教文化圏出身なのでしょう。
 キリスト教では、仏教徒が仏像を祀るように、「神」を像などの形にして祀るという考えはありません。
 イエス・キリストを始めとした聖者たちを、イコンと呼ばれる絵に描くことは行われています。
 それらの絵を家庭内で飾ることも認められているようですが、それは単なる絵であって、神聖なるものではないのです。

 こんな文化圏から日本に来れば、家の中に仏壇があり、仏壇に手を合わせる風習は、驚きであるにちがいありません。

 「家の中に教会がある」を日本流に改めれば、「家の中にお寺がある」という言い方に変わります。

 その「家の中のお寺」は、一家のあるじやお年寄りによって守られてきました。

 葬儀社のテレビコマーシャルに、お婆ちゃんが孫2人を連れて仏壇にお参りするシーンがあります。
 お婆ちゃんの後ろでお参りしていた孫たちが、お勤めの途中、そっと抜け出して遊びに行ってしまいます。
 お婆ちゃんは、そのことは気配で察しています。
 抜け出していく孫たちの後ろ姿をチラッと見たお婆ちゃんは、ほほえみながら、

    今にきっと分かるときが来る!

と言います。
 お婆ちゃんは、子どもたちの未来のことも考えて、お参りしていたのです。

 仏壇は、子孫の未来を考えて生きた祖先の願いが受け継がれ、その願いを受け渡しする場所として機能してきました。      合掌


2012・5月

【 お寺の行事 】

       6月未定   お講  8時 お勤め
                      9時 おとき
                     当番 福島組

       7月1日(日)魂迎会 正午 おとき
                     1時 お勤め
                     当番 石川組  

            お誘い合わせてお参りください。

【 寿命 】

 あるお医者さんの話です。
 どうしても薬を飲もうとしないお年寄りの患者さんに、”薬を飲まないと死んでしまいますよ!”と脅しても、まったく効き目がありませんでした。
 そこで、”薬を飲まないとボケますよ!”と脅したら、とたんに薬を飲み出したというのです。
 このことがあってから、医師は、”最近のお年寄りは、死ぬことよりも、年を取ることが恐いのか!”と思うようになったということです。
  『グリム童話集』に、「寿命」という話が載っています。
 神が、この世を作ったとき、すべての生き物に寿命を与えました。
 最初にロバが来ました。
   ロバ・神さま、私の寿命はどのくらいになりますか?
   神 ・30年でどうだ?
   ロバ・とんでもない。30年は長すぎます。私の苦労を察してください。
       朝から晩まで、重い荷物を運ばされます。少し歩みが遅くなると、蹴られたり、ぶたれたりします。
       30年も、こんな仕事を続けるのは嫌です。 
 神は、かわいそうに思って、ロバの寿命を18年としました。
 次に、犬がやってきました。
 神は、ロバにも言ったように、30年をやろうとしました。
   犬 ・神さま、私が、どれだけ走り回っているか察してください。
       30年なんて、足がもちません。
       そして、歳を取ると、吠える力もなくなり、噛みつく歯も抜けてしまい、隅っこでウーウーうなるだけです!
 神は、もっともだと思って、犬には12年の命を与えました。
 次に来たのは猿です。
 神は、猿に、やはり30年の寿命をやろうとしました。
   猿・ 猿芝居を30年もやらされたのではかないません。人間は、おもしろいといって笑いますが、笑われる稼業も大変です。
       とても、30年は続けられません!
 神は、気の毒に思い、猿には10年の寿命をやりました。
 最後に来たのは人間です。
 神は、まず30年を提示しました。
   人間・30年は、短かすぎます。
       30歳でローンを組んで我が家を建て、これから精を出して働かねばならないというときに死ぬのは嫌です。
       もっと伸ばしてください!
と大きな声で文句を言いました。
   神 ・では、ロバの18年を足してやろう!
   人間・まだ、少なすぎます!”
   神 ・犬の12年もあげよう!”
   人間・まだ、足りません!”
 神は、猿の10年もやりました。
 それでも、人間は、不満たらたらで帰っていきました。
 こうして、人間の寿命は70年と決まりました。
 考えて見れば、人間は、30歳ぐらいまでは、楽しく夢もある時期を過ごします。
 その後、家庭を持って、家族を養うために、ロバのように働かねばなりません。
 ロバの時期が過ぎると、体力も衰え、歯も抜けてきて、思うように動けず、食べられず、犬の時期を迎えます。
 その後は、猿のような愚かなことをしでかして、人に笑われる時期になります。
 これが、死ぬことを忘れた人間の一生です。
 死ぬことを忘れているから、人生に輝きがありません。
 空しく人生を終わるのは、このためです。

【 光に会う 】

 札幌ドームで、J1サッカーの試合を見る機会がありました。
 コンサドーレ札幌が、鹿島アントラーズを迎えての一戦でした。
 コンサドーレ札幌は、今年J1に昇格したばかりです。
 このため、札幌の人たちの期待も、いやがうえにも盛り上がっているようでした。
試合は、コンサドーレ札幌が先制したものの、後半に2点取られて敗戦となりました。
サッカーの応援団のことを、サポーターと言います。
 札幌のサポーターは、どこまでも温かいと感じました。
 札幌は、J1に昇格してから、まだ1勝もしていません。
 またまた敗戦となってしまった地元チームを迎えるサポーターの声援が、温かいのです。
 それは、母が、うまくいかずしょんぼりしている我が子を、懐に抱き入れてやるような温かさでした。
 負け続けるからこそ、かわいい。
 弱いからこそ、よけい応援したい。
 強くないからこそ、ずっと見守っていたい。
 そんな印象でした。
 このサッカーの試合を見ながら、ふっと頭をよぎったことばがあります。
 それは、親鸞聖人の『正信偈』の中にある、「摂取心光常照護」という偈文でした。
 この偈文は、「阿弥陀仏の救いの光りが、衆生を常に照らし護り続けている」という意味です。 
 弱いチームを応援し続けるサポーターの温かい心が、阿弥陀仏の衆生を見守り続ける慈悲の心を思わせました。
 阿弥陀仏の慈悲の心が、サポーターの温かい心となって現れる。
 その心が光りとなって、選手を照らす。
 阿弥陀仏の救いの光は、たとえば、こんなふうに私たちを照らし続けてくださっているのです。
 これが、「摂取心光常照護」の偈文のこころです。
 しかし、「摂取心光常照護」の光は、札幌のサポーターのように温かいものばかりではありません。
 ときには、厳しい光となることもあります。
 それでも、私に向けられた光りは、温かくても温かくなくても、厳しくても厳しくなくても、すべて阿弥陀仏の光りです。
 私に向けられた光りは、何事もすべて阿弥陀仏の光りのお照らしなのです。
 私たちは、煩悩という疑いの心を持つがゆえに、このことが、どうしても分かりません。
 分からないから、「摂取心光常照護」の教えに疑いを持ってしまいます。
 疑うがゆえに、南無阿弥陀仏の念仏も出てきません。
 こんな私たちを、親鸞聖人は次のようなご和讃で示してくださいました。
     煩悩にまなこさえられて
     摂取の光明みざれども
     大悲ものうきことなくて
     つねにわが身をてらすなり
 煩悩という疑いの心しか持てない衆生であっても、阿弥陀仏は差別も区別もせず、一様に照らし続け、護っておってくださる。
 サッカー観戦は、阿弥陀仏の光りについて考える機会となりました。            合掌

2011・5月

【 お寺の行事 】

       6月 5日(日) お 講 08:00 お勤め
                      09:00 おとき
                      当番 道辻組

       7月 1日(金) 魂迎会 12:00 おとき
                      13:00 お勤め
                      当番 土肥組           

           お誘い合わせてお参り下さい。

【 トモダチ作戦 】

 未曾有の災害となった東日本大震災は、発生から二ヶ月を迎えようとしています。
 いまだに多くの行方不明者があり、被害の全容がつかめないまま、復旧に向けた取り組みが始まろうとしています。
 その様子が各メディアを通じて流され、同時に、識者や一般人など、各方面からの発言も報道されています。
 さまざまな発言を、読んだり聞いたりする中で、違和感を感じるものがあります。
 たとえば、被災者に対して「がんばってください!」という発言です。
 このことばを聞いた被災者は、「がんばれと言われても、何を頑張ればいいのか分からない!」と答えていました。
 また、被災地を取材した東京のカメラマンが、ラジオ番組に出演して、司会者から被災者に向けたメッセージを求められ、「亡くなった人の分まで生きて欲しい!」と答えていました。
 「…頑張れ!」とか「…亡くなった人の分まで…」という、これらの発言は、被災者の心に響くでしょうか。おそらく、届かないでしょう。
 復旧・復興のゴールが見えない人に「…頑張れ!」と言っても、言われた人は、どのくらい頑張ればいいのか分かりません。
 また、肉親を失って、悲しみを一生背負って生きねばならない人に、「…亡くなった人の分まで…」と声をかけても、どのように生きればいいのか分かりません。
 ことばが間違っているというのではありません。被災者は「頑張ろう!」と思っています。「亡くなった人の分まで…!」とも思っています。応援メッセージに、被災者に寄り添う気持ちが欠けているのです。そして、ことばが浅いのです。
 寄り添う気持ちがなければ、どんな声かけも、相手の胸に響きません。
 アメリカ海軍は、「トモダチ作戦」と名付けて、救援活動に参加しました。海兵隊員は、「友」と書いたワッペンを腕に縫い付けて、被災地に入りました。この作戦の背景には、日米政府の利害への思惑があるとはいえ、現場に入った海兵隊員と被災者の間には、いくつもの心温まるエピソードが生まれました。被災者の人たちは、ことばの通じない海兵隊員の救援・支援活動を、どんなにか頼もしく思ったに違いありません。そして、勇気づけられたことと思います。
 ことばは要らないのです。しゃべる必要がないのです。黙って、寄り添ってあげればいいのです。寄り添う気持ちが、被災者を救います。寄り添ってくれるだけで、元気が出るのです。希望が湧いてきます。
 親鸞聖人は、次のような和讃を作られました。

    縦令一生造悪の           
     衆生引接のためにとて            
    称我名字と願じつつ             
    若不生者とちかいたり

 阿弥陀仏は、私たち衆生を救い遂げるまで、寄り添ってやると誓っておられます。私たちが救われて行く姿を見届けるまで、見捨てないと誓ってくださっています。
 その阿弥陀仏の救いのはたらきがあるからこそ、私たちはなぐさめられ、希望を持って生きることができるのです。
 しかし、阿弥陀仏のはたらきかけに目覚めなければ、なぐさみも希望もありません。目覚めた人のみが、前向きに生きることができるのです。
 そのために、阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と念仏を称えよと呼びかけてくださっています。
 阿弥陀仏の呼びかけに目覚め、念仏を称えて生きることが信心の生活であり、阿弥陀仏に支えられて生きることを喜ぶ人生を開くのです。

【 顔 】

 3月27日、毎日新聞が掲載した1枚の写真に眼が止まりました。
 写真は、東日本大震災の被災地から、避難先へバスで移動して行く少女の表情を伝えていました。
 少女は、バスの中から、見送りの人に手を振っています。その表情に、笑顔はありません。無表情です。
 生まれ故郷を後にする寂しさもあるでしょう。また、これからの生活への不安もあるでしょう。そう思うと、泣きたい気持ちもあるにちがいありません。しかし、泣いている場合ではない。まして、笑うわけにもいかない。少女は、その複雑な心情を、グッとこらえているように見えます。
 この表情を見て、奈良の興福寺にある「阿修羅像」を連想しました。
 少女の表情が、「阿修羅像」の顔に似ているのです。
 阿修羅は、仏教では、血気盛んで闘いを好む鬼神と考えられています。
 激しい闘いの場面や状況を、「修羅場」と言います。このことばは、「阿修羅」に由来しています。
 阿修羅像は、不安な顔つきをしています。
 少女は、これから、予想もつかない未来を歩まねばなりません。少女の行く先には、困難な「修羅場」がいくつも待ち構えています。
 だから、泣いている場合ではないのです。とにかく、行かねばなりません。
 そして、少女の目は、遠くを見ているように見えます。
 阿修羅像も、遠くを見ています。
 少女の澄んだ目も、阿修羅像も、遙か彼方にある、今は見えない「希望」を見ようとしているに興福寺の阿修羅像  ちがいありません。 合掌

2010・5月

【 お寺の行事 】

     6月 未定   お 講  お始まり 午前8時
               当  番 谷口組のみなさん

     7月1日(木) 魂迎会  正午 お斎
                     1時 お勤め
                     法話 富樫一就 師
                       (安津見 専念寺住職)

            お誘い合わせてお参り下さい

【 蓮如忌紀行 】

 今から約540年前、蓮如上人(本願寺第8代門主)が、吉崎(福井県あわら市吉崎町)に4年間滞在したことがあります。
 吉崎での蓮如上人は、北陸門徒の教化に力を注ぎました。
 蓮如上人は、これまでにない新しい方法で教化を始めました。その方法は、お念仏の教えを手紙に書いて門徒に送ることでした。手紙は、誰にも分かる平易なことばで書きました。
 その手紙を集めて冊子にしたのが、みなさんのお宅の仏壇に置いてある「お文さま」です。「お文さま」は、蓮如上人の手紙を集めて本にしたものです。
 当時、蓮如上人の手紙を受け取った門徒は、みんなを集めて、読んで聞かせました。このようにして、北陸は、「真宗王国」と言われるまでに、お念仏の教えが広まったのです。
 吉崎時代の蓮如上人は、お勤めのやり方も改めました。これまでは、『正信偈』を拝読することは行われていませんでした。誰でもお勤めできる『正信偈』と『和讃』に念仏を交えて行うお勤めは、蓮如上人の時代から始まりました。
  この蓮如上人の新しいやり方で、北陸は念仏の信者が爆発的に増えました。吉崎滞在2年目には、「…当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三か国のあいだより、道俗男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる…」(『お文』第1帖5通目)というまでに、吉崎は参詣者であふれかえるようになりました。
 蓮如上人を偲んで、毎年、吉崎別院では、「吉崎別院御忌法要」が営まれます。京都から、1週間かけて徒歩で運ばれた蓮如上人の絵像を奉懸して、8日間の法要が勤まります。
 法要期間は、各地から参詣者がお参りします。参道には、地元商店の人たちが露店を出して参詣者を迎えます。参道は、門前市をなすにぎわいとなり、堂内では読経があり、善男善女が法話に耳を傾けます。
 蓮如上人の時代を彷彿とさせる法灯の里の風景がありました。

【 岸壁の母 】

 さきごろ、♪岸壁の母♪ を歌い続けた二葉百合子さんが、現役を引退すると発表しました。
 二葉百合子さんは、♪岸壁の母♪ を40年間歌ってきました。
 ♪岸壁の母♪ のモデルは、旧富来町出身の端野いせさんであることは、みなさんもご存じのことと思います。
 端野いせさんの息子新二さんは、満洲国でソ連軍の攻撃を受けて、牡丹江で行方不明になりました。戦死したという消息もありません。 端野いせさんは、息子新二さんが生きていると信じ、その復員を待って、舞鶴港の岸壁に立ち続けました。当時、舞鶴港の岸壁には、端野いせさんばかりでなく、たくさんの母が、息子の帰りを待ちわびて、復員船が入るたびに岸壁に立ちました。
 ♪岸壁の母♪ が生まれたときのエピソードがあります。
 作詞は、♪一本刀土俵入り♪や♪浪花節だよ人生は♪を作詞した藤田まさとさんです。藤田まさとさんは、端野いせさんにインタビューしているうちに身につまされ、母の深い愛に感動し、わきあがる激しい気持ちを押さえながら詞にしました。
 作曲は、平川浪竜さんです。歌詞を読んだ平川浪竜さんは、これはただの歌謡曲の詞ではないと直感し、徹夜で作曲しました。
 翌日、レコード会社の重役さんたちに聴いてもらいました。曲を聴いた重役さんたちからは、何の感想もありませんでした。重役さんたちは、感動して、その涙で返事ができなかったのです。
 歌手は、菊池章子さんと決まりました。菊池章子さんは、レコードに吹き込むとき、前奏が始まると胸がつまって泣き出しました。舞台でも泣きました。「…もしや、もしやにひかされて…」の歌詞にくると、涙が止まらなかったと語っています。
 ♪岸壁の母♪ は発売と同時に、日本中が感動しました。
 この♪岸壁の母♪ を、二葉百合子さんが、台詞を入れて、浪曲調で歌い、再び大ヒットし、今日に至っています。
 さて、終戦から11年後、端野いせさんのもとに、息子新二さんの戦死告知書が遺骨のないまま届けられました。一方、新二さんは、中国で生きているという情報を慰霊墓参団のメンバーが持ち帰りました。端野いせさんが亡くなってから、19年後のことです。しかし、新二さんが生きていたという確実な証拠や情報はありません。
 端野いせさんの願いもむなしく、母子の再会は叶いませんでした。
 ところで、私たちにも「岸壁の母」がいます。それは、阿弥陀仏です。「…釈迦は慈父、弥陀は悲母、われらがちちははとして信心をおしえたまえり…」(唯信鈔文意)
 阿弥陀仏は、私たち衆生をいとおしむ悲母です。極楽浄土の岸に立って、私たちに向かって、「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!…」と呼びかけておってくださいます。 その悲母の呼び声が、私たちに届きません。私たちは、悲母の呼び声を聞く耳を持たないからです。悲母の呼び声は、両耳で聞くのではありません。心の耳で聞くのです。阿弥陀仏が称える念仏は、私たちが帰る古里はここだぞと呼んでくださっている私たちへの呼び声です。
 私たちは、心の耳を持たないかぎり、信心の悲母と再会することは叶わないのです。

【 時効廃止 】

 殺人罪の公訴時効を廃止、延長する法案が国会で議決されました。
 たとえば、強盗殺人の場合、これまで時効は25年でした。それが廃止され、無期限となりました。強盗殺人の犯人は、死ぬまで警察に追われる身になったのです。
 そもそも、「時効」という考え方は、警察の都合によるものです。もともと、罪には、時効などあるはずがありません。一度犯した罪は、無かったことにはできないからです。事実は、隠すことはできても、消せないからです。
 私たちは、これまで、警察に逮捕されるような罪でなくても、さまざまな失敗や罪を犯して生きてきました。
 宗教という立場からみれば、人間は、罪を犯さねば生きていけない命を生きています。私たちは、もともと悪人なのです。そして、時効のない罪を背負って生きるのが、人間という命です。
 その悪人が、自分は善人だと思って生きるところに、生きる苦しみが生まれます。生きることが苦しいのは、犯した罪に苦しんでいるからです。誰のせいでもありません。
 阿弥陀仏は、罪に目覚めた者を救うとお約束してくださっています。       合掌

2009・5月

【 お寺の行事 】

    5月は、お寺の行事はありません。


【 母の日 】

   これが最後 これが最後と思いつつ 面会の母は 八十五になる

   奥深く拒まれ いまも実家にて 吾の名禁句と 母は嘆けり
 
 これは、昭和51年、長野県軽井沢町で起きた浅間山荘事件のリーダー、坂口弘(62歳)死刑囚が詠んだ短歌です。連合赤軍による浅間山荘立てこもり事件は、現場が生中継されたことで、日本中の人がテレビに釘付けになりました。記憶されている方も多いと思います。
 事件は、発生から10日後、死者3人・重軽傷者27人の犠牲者を出して終息しました。裁判では、逮捕された5人のうち、リーダー格だった坂口弘(当時26歳)だけが死刑判決を受け、ほかの4人は無期懲役以下の刑が確定しました。
 死刑判決を受けた坂口死刑囚は、平成2年頃から短歌を作り始めました。短歌は、歌人の佐々木幸綱さんに教えてもらいました。坂口死刑囚が詠んだ短歌を、佐々木幸綱さんのもとへ届けたのが、母の坂口菊枝さんでした。
 菊枝さんは、浅間山荘事件では、山荘に人質をとって立てこもり、親に銃口を向ける我が子に向かって、スピーカーで投降を呼びかけました。息子は、母の説得を聞き入れませんでした。
 そんな息子を刑務所に訪ねた母は、「母ちゃんは、おまえを見捨てることはしないよ!」と伝えました。
 菊枝さんは、息子の裁判が始まると、長野や東京に住む被害者や遺族を訪ね、謝罪して回りました。また、我が子の助命嘆願活動も行いました。
 そんな母の努力もむなしく、最高裁判所まで争った裁判は、一審の死刑判決を覆すことができませんでした。
 死刑判決確定後も、菊枝さんは刑務所に通い続け、息子が詠んだ短歌を、せっせと佐々木幸綱さんに届けるなど、我が子に献身しました。
 菊枝さんは、刑務所へ36年間も通い続けました。そして、昨年、93歳の生涯を閉じました。死刑判決を受けた息子の行く末を見届けることなく、無念を残したままの生涯でした。
 坂口死刑囚の短歌は、苦悩する母の姿を詠んでいます。しだいに年老いていく母。家庭でも、世間でも、身を小さくして生きる母。母の苦しみが、その姿やことばをとおして、切々と息子の胸にせまります。
 母の訃報を聞いた坂口死刑囚は、
    無私の恩愛に、私は在り来たりの言葉では言い尽くせぬ深い感謝の気持ちを抱いております。母の存在抜きにして今の自分がある    ことは考えられません。
と述べました。
 『父母恩重経』というお経には、私たちは、父や母から受ける恩が10あると説かれています。「1つに懐胎守護の恩。2つに臨産受苦の恩。…」と続く8番目に「為造悪業の恩」があります。
 「為造悪業」とは、親は、子を守るために、良心に反した行動をすることもあるという意味です。親の、自分を犠牲にしてまで、子を守ろうとする強い愛情を「為造悪業の恩」と言うのです。
 坂口菊枝さんは、悪いことをしたわけではありません。悪いことをした息子を何とかして支えたいと考えて、刑務所にいる我が子のもとへせっせと通いました。地獄に堕ちた我が子を、わが身も地獄に堕ちて、すくい上げてやろうとする母の強い覚悟からでした。
 仏さまの教えに、「5障3従の女人」ということばがあります。女性は、子供の時は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うと言われます。これを、「3従」と言います。わが身が老いてしまったら、たとえ不肖の子であっても、悪いことをした子であっても、我が子に付き従っていかねばなりません。母は、そんな宿業を背負っています。
 坂口敏枝さんの生涯は、仏さまの教えそのものの「3従」の人生でした。
 思えば、母とは切ない存在です。

【 品格 】

 大相撲の5月場所が、10日から両国国技館で始まります。3月場所を終えた力士たちは、これまで、地方巡業などで力を付けてきました。
 その地方巡業中、ちょっと変わったことがありました。
神奈川県の藤沢市で行われた藤沢巡業で、これまで、たくさんのトラブルを起こしてきた横綱朝青龍が、朝げいこで、若手力士を叱ったというのです。
 胸を貸した玉鷲には、「声を出さないと! 死んでる! おれも左手が痛いのに我慢してやってんだ!」と叱り、興行主の求めで握手会などで土俵に姿を見せなかった栃煌山ら、日本の若手人気力士には、「けいこが大事なんだ!」「土俵が死んでいるよ! 数少ない巡業だから、しっかりやってもらわないと困る!」と苦言を呈したというのです。
 この朝青龍の手きびしい言葉に対して、土俵に姿を見せなかった豪栄道は、「屋外で、豪風関と三番げいこをやっていた」と説明し、稀勢の里は、「外でいろんな関取とけいこをしていた」と言い訳し、見に来たファンをがっかりさせました。
 それにしても、朝青龍はどうしたのでしょうか。これまでの自分を棚に上げた、優等生ぶりです。
 朝青龍は、社会事業として、わんぱく相撲大会「朝青龍杯」を計画しています。その理由は、「相撲界に恩返しがしたい。子供たちが相撲に触れる機会をつくりたい」というものです。
 朝青龍は、これまで、地方巡業をさぼったり、勝手にモンゴルへ帰るなど、無軌道な行動が批判されてきました。引退勧告まで取りざたされたこともありました。 横綱は、心技体の三拍子が揃っていなければなりません。朝青龍は、力だけで横綱になったと言われてきました。土俵上の態度の悪さは、横綱の品格をおとしめるものだと批判されました。
 今回の若手力士への苦言と相撲界への恩返しの計画が本物ならば、朝青龍は変わったと言わねばなりません。そして、朝青龍は、心技体の揃った横綱としての品格を備えつつあると言えます。
 人は誰でも、自分のことを先に考えます。そのことが行きすぎれば、頭を叩かれます。頭を叩かれることで、人間は丸くなります。丸くなるとは、自分のことだけでなく、人のことも考えられるようになることです。
 人間は、3段跳びで人格的な成長を果たすもののようです。朝青龍は、第2段階まできました。3段階目までは、あと1段です。
 3段階目とは、自分のことは後回しにして、他の人のことを優先する段階です。この段階までいけば、朝青龍は、品格を備えた大横綱になれます。
 そして、このことは、私たち普通の人間にも言えることです。
 第3段階まで行かないと、人間としての品格が備わらないのです。 合掌

2008・5月

【 お寺の行事 】

  5月は、お寺の行事はありません。

  5月31日(土)に、「能登教区第3浜方組同朋大会」が、上棚の浄源寺で行われます。お参りされる方を募ります。交通は、極應寺で手配します。

【 心を映す鏡 】

 長崎県の雲仙温泉は、湯煙があちこちから吹き出しています。一帯を、「雲仙地獄」と名付けて、地獄巡りができるようになっています。その中に、「浄玻璃の鏡石」と名付けられた1つの大きな石があります。
 仏教では、「浄玻璃の鏡」は地獄の閻魔庁にあると説かれます。三途の川で裸にされた死者は、閻魔大王の前に連れて行かれます。閻魔大王の横には、「浄玻璃の鏡」があります。死者は、鏡の前に立たされます。すると、鏡には、死者が生前行った悪業のすべてが映し出されます。それを見て、閻魔大王は、地獄行きか極楽行きかの判決を下します。
 雲仙に旅行する機会があれば、「浄玻璃の鏡石」に自分を映して、どんな自分が映るか確かめてみるのもよいでしょう。
 さて、先日、9年前に山口県の光市で起こった母子殺害事件の判決が広島高裁でありました。妻と零歳の子を殺された夫の本村さんは、これまで、犯人の死刑を求めて活動を続けてきました。判決は、本村さんの希望どおり死刑となりました。
 しかし、本村さんは、死刑判決が出たことで満足してはいません。判決後の記者会見で、犯人が裁判の過程で、供述を変えたことに触れて、「どうして、あんな供述をしたのか。事実を述べて反省の弁を述べていたら、死刑は回避できたかもしれないのに…」と述べました。そして、事件で亡くなった2人に加えて、死刑判決で、もう1人が死ぬことになったことについて、「3人の命を社会は見つめてほしい」とも語りました。本村さんは、今日まで、犯人に対する憎しみだけで活動を続けて来たのではありませんでした。憎しみや対立を超えたところにあると思われる解決の道を求めて活動してきたのです。
 本村さんは、以前、出演したテレビ番組で、「今回の事件を、人々が、必然だった、意味があったと受け止め、社会がどう変わって行かねばならないかを考えるきっかけとしてほしい。そうでなければ、死んだ2人が報われないし、自分も満たされることはない」というような発言もしています。
本村さんは、妻と子を殺された事件を、人間の悪業を映す「浄玻璃の鏡」としてほしいと訴えているのです。
 私たちは、わが心を映す「浄玻璃の鏡」を持っているでしょうか。持っていたとしても、曇っていたのでは何も映りません。映らなければ、わが悪業に気づくこともありません。わが心を映す鏡は、いつも磨いておく必要があります。そうしなければ、人間は、底なし沼のような世界にずるずるとはまっていくような気がします。

【 母の日 】

 母の日が近づくと、百貨店など、「母の日プレゼントコーナー」は、たくさんのお客さんでにぎわいます。その売り場で働いた女性の話です。
 売り場には、4月中旬ごろからお客さんが下見を兼ねて訪れるようになります。姑さんへのプレゼントを考えるお嫁さんの接客もします。
 お嫁さんは、「実家の母なら適当な物でもいいけど、主人のお母様だから気を遣うわ!」などと迷いながら、慎重に品物を選んで買って帰ります。
 母の日が過ぎると、プレゼントをもらった姑さんが、売り場を訪れます。サイズや色の交換などをするためです。中には、「こんなセンスのない趣味の悪い物を嫁にもらったけど、自分の好きな物を買うからお金を返して!」とか、「私は、輸入物しか着ないから、こんな安物はいや。返金して!」などと要求する姑さんもいます。
 お金を返してもらった姑さんは、さっそく輸入品コーナーへ出かけ、自分の好きな物を買って帰るのだそうです。 
 人に物を贈るということは、難しいことです。せっかくの贈り物が、相手に喜んでもらえなかったり、貰った品物に不足を言う話はよくあります。
 贈り物をするということは、心を贈ることであるし、もらう方は心を受け取るということです。このことを忘れて、品物にだけ気持ちが傾いてしまえば、贈る方は品物を選ぶことが苦痛になるし、贈られた方はプレゼントに不足を言うことになります。心を贈り、心をもらう贈り物こそ、最高のプレゼントではないでしょうか。

【 『雪とパイナップル』 】

 医師の鎌田實さんが書いた『雪とパイナップル』という絵本が、新聞に紹介されました。鎌田實医師は、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染で、白血病になったベラルーシ共和国のアンドレイ少年の治療にかかわりました。そのときの実話を絵本にしたのです。
 アンドレイ少年が被爆したのは、生まれて半年の時でした。10歳のとき、高熱が出て入院しました。急性リンパ性白血病と診断されました。アンドレイ君の病気は、なかなか回復しませんでした。そのため、何度も何度も抗ガン治療が行われました。アンドレイ君は、治療に耐えました。
 しかし、アンドレイ君は、4年後に亡くなります。
 アンドレイ君が、白血病と闘っているときのエピソードです。
 アンドレイ君は、食事をまったく摂れなくなりました。そのとき、日本から同行していたヤヨイさんという看護師さんが、アンドレイ君に、「何が食べたい?」と聞きました。アンドレイ君は、「パイナップル…」と答えました。
 病院に、パイナップルはありません。ヤヨイさんは、真冬のベラルーシの町へ出て、パイナップルを売っている店を探しました。ベラルーシは真冬です。南方でしか採れないパイナップルは、どこにも売っていません。ヤヨイさんは、毎日、パイナップルを探し求めて厳寒の町を歩き回りました。やがて、日本の看護師さんがパイナップルを探しているといううわさが町に広がりました。
 パイナップルの缶詰を持っている人がいました。この人が、町のうわさを聞きつけました。「缶詰ならあるよ! よかったら、アンドレイ君に食べさせて!」と言ってくれました。
 缶詰のパイナップルを食べたアンドレイ君は、食欲が回復しました。
 1つのパイナップルの缶詰には、さまざまな人と人とのつながりがありました。アンドレイ君は亡くなりましたが、アンドレイ君のお母さんは、アンドレイ君の命を救うために、たくさんの人が懸命に努力してくれたことに感謝しています。
 鎌田實医師は、このエピソードを感動的に物語っています。
 絵本の最初には、「…1番大切なものを失ったときでも 人間は感謝できることを知りました…雪のなかのパイナップルから教えられました」と書いてあります。
合掌

2007・5月

 【 お寺の行事 】
 
 5月の行事はありません。

 【 蓮如上人御影道中 】
 蓮如上人の絵像を、東本願寺から福井県あわら市の吉崎御坊まで歩いて運ぶ「蓮如上人御影道中」という伝統的な行事があります。
 今から約540年前、北陸地方の布教を思い立った蓮如上人は、越前の国吉崎に寺を建てました。それが、吉崎御坊です。上人は、この吉崎御坊を拠点として精力的な布教活動を行いました。蓮如上人の布教は、当時としては画期的なものでした。それは、各地の門徒に手紙を書いて送るという方法でした。念仏の信仰について書かれた蓮如上人の手紙は、北陸各地の門徒に届けられました。手紙は、地域で活動する僧侶たちによって、門徒の前で読まれました。手紙は、何度も繰り返し読まれました。門徒たちは、同じ手紙を何度も聞くことで、上人のことばを心に深く刻み込み、信仰を深めて行きました。
 この布教形態は、現在にまで受け継がれました。お寺や門徒宅で、仏事の終わりに僧侶によって読まれる「お文(おふみ)」は、実は蓮如上人の手紙なのです。一家に一冊は備えられている「お文」には、蓮如上人の手紙22通が収められています。
 蓮如上人は、吉崎御坊に5年間ほど滞在したあと、吉崎の地を去り、河内の国の布教に出かけられました。以後、上人は吉崎の地を訪れることはありませんでした。   蓮如上人の御影が吉崎御坊に到着−北國新聞より
 上人の感化を受けた吉崎の門徒たちは、もう一度、蓮如上人に吉崎に帰ってもらいたいと思い続けてきました。そこで考えられたのが、蓮如上人の姿を描いた絵像を吉崎門徒に貸し出すことでした。これを喜んだ吉崎門徒たちは、京まで片道約240qもある遠い道のりを歩いて、蓮如上人の御影をお迎えに行きました。御影を迎えに行く人たちは、供奉人(ぐぶにん)と呼ばれました。供奉人は、往復約480qの道のりを、約20日間近くかけて歩き、吉崎に帰りました。吉崎御坊に迎えられた蓮如上人の絵像は、さっそく本堂に安置され、法要が営まれます。法要が終われば、御影を東本願寺に送り届けます。その時も、お迎えした時と同じ日数がかかりました。この伝統は今に受け継がれ、今年で334回を数えます。
 現在は、東本願寺から吉崎にお送りし、吉崎での法要後、東本願寺にお返しするという1往復のみ行われています。御影道中は、伝統にならって、今も歩いて行われています。現在は蓮如上人の時代と違って、道路も舗装されて歩きやすくなりました。それでも、1往復15日間かかります。
 さて、現代は速さが求められる時代です。速ければ速いほど価値があるとされます。速さに価値を置く人にとって、ゆっくり時間をかけて行う蓮如上人御影道中は、時代錯誤もはなはだしいと映るかも知れません。速さは、人類に恩恵をもたらしたことは確かです。しかし、それも、もはや限界に達しているように思われます。速さ・便利さが、重大な事故につながる例がいくらでもあるからです。
 このような状況の中で、近年、スローライフということが言われるようになりました。スローライフとは、マイペースで焦らず生きる生活のことです。ゆっくり生きることの価値を見つめ直す人たちが出てきたのです。速さの時代を終わらせることは困難ですが、速さの中にあって、ゆっくり生きる視点を見失わないことがスローライフの精神です。
 そして、速さの時代に、歩くことに頑固にこだわる吉崎門徒の気概には感服します。吉崎門徒の信仰の深さと信仰の伝統を守ろうとする心意気を感じます。そんな吉崎門徒の姿から、速さのみに生きる自分が反省させられます。
 これからは、高齢化社会になります。当然のこととして、スローなことが起こり、スローな対応が求められるようにもなります。そこから生まれるスローな文化は、人間の自然なリズムに合致したものになるのではないでしょうか。
 
 【 震災余話 】
 能登半島地震が発生してから、1ケ月が経ちました。新聞は、連日、被災地に寄せられる善意を報道しています。どこそこの会社や団体、個人から何百万円とか何十万円の義捐金が届いたとか、ボランティアの活動ぶりなどです。そして、先日、被災した酒造会社をライバル会社が助けているという美談まで載りました。
 このような報道から、被災地には、善意ばかり集まるように思われますが、悪意も集まってきます。ボランティアと名乗る人に、屋根にブルーシートを張ってもらったら、30万円の請求書を渡されたという話もあります。
 人間は、善意と悪意を同時に持っています。ある行為が善意となるか、悪意となるか、それは、その時のその人の「縁」によると親鸞聖人は説いています。元々善人であるとか、元々悪人であるという人はいません。人は、そのときどきで、善人にもなったり、悪人にもなったりするのです。
 そして、善意というものは、後で問題を起こすことがあります。金額が多かったとか少なかったとか、そんなつもりじゃなかったとか、こんなはずじゃなかったなどともめるわけです。親鸞聖人は、このような善意は、「聖道の慈悲」であると言い、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と説いています。
 13年前の阪神淡路大震災を体験した木内美峰さんは、今、金沢の大乗寺で修行しています。民間人であった木内さんが仏門に入るきっかけとなったのは、勤めていた印刷会社も被災して、全社員の半数を解雇する仕事をしたときでした。木内さんは、身を切られるような思いで社員に解雇を言い渡しました。そのあと、木内さんは、「これで良かったのか…」と何度も自問しました。しかし、納得のいく答えが得られません。自分がした行為の罪悪に思い悩んだ木内さんは、出家することを考えるようになりました。
 数年後、会社は苦境を脱しました。それを見届けた木内さんは、定年を待たずに会社を辞め、大乗寺の門を叩きました。
 神戸とはまったく違う気候風土の金沢での修行は、木内さんの体調を狂わせました。そんなとき、金沢は自分を拒否しているのではないかと思い、気持ちが消極的になることもありました。それでも、木内さんは修行に耐えました。最近になって、ようやく修行にも慣れてきました。そうしたとき、木内さんの耳に、「ちょっとぐらい許したろか」という声が聞こえてくるような気がしてきました。
 木内さんは、「私の場合、災害は、生とは何かを見つめ、新しい自分に生まれ変わるきっかけになりました」と語っています。そして、いずれは神戸へ帰り、いまだ心の傷の癒えない人たちの役に立つことをしたいと考えています。
 能登半島地震は、個人差はあるものの、私たちの心にも傷を残しました。その傷は、義捐金などで癒えるものではありません。私たちも、木内さんのように、心の持ち方や在り方を変えることで、地震被害と向き合うことができるのではないでしょうか。そのとき、新しい自分との出会いがあるはずです。       合掌 

2006・5月

【 依存症 】

 ♪会津磐梯山♪という福島県民謡があります。
 囃しことばの中に、小原庄助さんが出てきます。小原庄助さんが身上をつぶしたと囃します。自分の不名誉を民謡にまで唄われたことは、庄助さんにとって、残念であったにちがいありません。しかし、この民謡のおかげで、会津、磐梯山、小原庄助は全国的に有名になりました。
 そもそも、福島県の会津盆地は、磐梯山から流れ出す豊かな水の恵みを受けて、良質の米を産出します。この良質の米から、おいしい酒ができます。そして、会津地方は、各地に温泉が湧き出しています。東山温泉、西山温泉、熱塩温泉などです。こんな地域的条件下にありますから、会津には、酒好きで・温泉好きがいても不思議ではありません。

      エイヤー! 会津磐梯山は 宝の山よ 
      笹に黄金が エー またなりさがる

      エイヤー! ことしゃ豊年 穂に穂が咲いてよ
      道の小草にも エー また米がなる

           小原庄助さん なんで身上つぶした
           朝寝 朝酒 朝湯が大好きで 
           それで身上つぶした
           アー もっともだ もっともだ
 
      エイヤー! 東山から 日にちの便り
      行かざなるまい エー また顔見せに

      エイヤー! 縁がありゃこそ 見知らぬ人に
      一目会津で エー また忘られぬ

 民謡♪会津磐梯山♪の歌詞をよくよく見ると、どうやら会津の酒と温泉を宣伝する内容になっています。その観光宣伝に、小原庄助さんが担ぎ出されたということのようです。
 小原庄助さんは、どんな人物だったのか、はっきり分かっていません。庄助さんの墓が会津若松市内の秀安寺にあります。戒名が「米汁呑了信士」となっています。酒を飲み尽くして生きた人という意味で、庄助さんは、戒名においても立派な名をもらえませんでした。(もっとも、庄助さんは、この戒名を、自分にピッタリだと、かえっておもしろがったかも知れませんが。)
 また、墓石が、徳利の上に杯を逆さに乗せた奇妙な形になっています。故人のことを思いやって作ったと言われれば、それまでですが、そこまでやらなくてもという気もします。
 さて、小原庄助さんは、なぜ身上をつぶしてしまったのでしょうか。民謡では、朝寝・朝酒・朝湯が原因だと唄われています。働きもせず、朝寝・朝酒・朝湯にふけっていれば、誰でも身上をつぶしてしまいます。小原庄助さんには、庄助さんなりの考えがあったものと思われますが、ひょっとすれば、不如意な人生が原因だったのかも知れません。その不如意から逃れるため、東山温泉へ行って、湯に入ったり、酒を呑んだりの放蕩生活を送ったとも考えられます。
 この庄助さんの状態は、現在なら病気と診断されます。
 依存症という病気があります。
 人生や日常生活が思うようにならず、その人生や日常から逃れるため、日常とは関係ない何かにふけったり、何かに頼ることで、精神的・肉体的な安定を得ようとする傾向のことを依存症と言います。
 依存症で最も悪いのは、麻薬などの禁止されている薬物を服用したりすることです。これは、犯罪になるとともに命の危険をともないます。禁止薬物まで行かなくても、酒に頼るのも依存症です。タバコに頼るのも依存症でしょう。賭け事にのめり込むのも依存症です。過食・拒食も依存症です。最近では、主婦の買い物依存症やパチンコ依存症などが社会問題になっています。依存症にかかると、本来、従であるものが主になり、主であるはずのものが従になり、生活が本末転倒して逆転してしまいます。そして、そのことが原因で、社会生活が成り立たなくなるという問題が付随して起こってきます。
 たとえば、遊ぶ金ほしさに、借金して多重債務者となり、自己破産する場合などがそうです。またお金ほしさに、まともに働かず、犯罪に走る例もあります。こうなると、社会的信用を失い、仕事も失います。そして、人間関係が崩壊し、家庭も崩壊します。その果てに、社会から孤立して、社会生活が成り立たなくなるのです。
 パチンコ依存症では、悲惨な事故も起きています。鹿児島県では、留守番をしていた12歳の女の子と4歳・2歳・1歳・8ケ月の子どもたち5人が、家が火事になり、逃げ遅れて焼死するという事故が起きました。両親は、12歳の女の子に幼い子どもたちの面倒を見させて、パチンコに熱中している最中のできごとでした。
 また、親が幼い子どもをパチンコ店の駐車場に止めた自家用車の中に置き去りにして、パチンコにふけっている間に、車中の温度が上昇して幼子が熱中症で死亡するという事故も後を絶ちません。
 現代人は「便利」を手に入れましたが、良いことばかりでなく、身を持ち崩すにも便利な方法を手に入れました。その「魅惑的な便利」は、ストレスで疲れた現代人が落ち込んでくるのを、大きな口を開けて待っています。
 依存症は、体の病ではなく、心の病です。したがって、内科治療とか外科治療の対象にはなりません。内科や外科では手に負えないからです。そこで、精神科でカウンセリングを受けたりするのですが、西洋的な手法では、今のところ、有効な成果は出ていないようです。
 その点、仏教は心の病を治すことを専門としてきました。薬師如来という仏さまがいます。手に薬壺を持ったお姿は、体の病気平癒の信仰を集めていますが、本来は、心の病を治すという仏教の教えを象徴的に薬壺で表現したものです。
 そして、蓮如上人は、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきなり」と説いて、頼るならば・依存するなら、それは「阿弥陀仏」だだ一人だと、何度も何度も繰り返して門徒に教えました。さらに、たゆむことなく念仏の教えを聞いて、「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う」とも説いています。
 私たちの心は、現代社会のアクが詰まって、真っ黒になっています。蓮如上人は、その真っ黒になって詰まっている心の溝―信心のみぞ―のアクを掃除して、弥陀の法水―極楽浄土の清浄な水―を流せと教えています。「法水」とは、仏さまの教えのことです。私たちの心に仏さまの清浄な教えを流し込むことで、心のアクとなって溜まっている人生のストレスを洗い流してくれます。
 小原庄助さんも、酒や温泉に依存せず、ただひたすら阿弥陀さまだけを頼りにしていれば、不名誉な名を残すことにはならなかったはずです。      合掌


2005・5月

【 善因善果 悪因悪果 】

 チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ十四世が来日して、金沢で講演したことが新聞で報道されました。
 ダライ・ラマは、チベット仏教では「活仏」=「生き仏」とされ、チベット民衆の絶対的な信仰の対象となっています。そして、観音菩薩の化身(生まれ変わり)であると信じられ、チベットでは最も尊敬される存在です。ダライ・ラマは、日本でもよく知られ、先頃、ノーベル平和賞を受賞したことでも有名です。
 チベット仏教は、インドから伝えられた仏教の原型をそのまま純粋に受け継いでいる仏教です。仏教は、東南アジアや中国そして日本にも伝えられましたが、その土地の在来の宗教や風習やものの考え方などに影響されて、形態や教えの内容が少しずつ変わっていきました。「活仏」という考え方は、もともと仏教にはない考え方なので、仏教がチベットに伝わってから生まれたもののようです。
 現在、仏教は、発祥地のインドではほとんど行われていません。したがって、仏教の原型となる形態や教えの内容を知ろうと思えば、チベット仏教がその手がかりになります。
 仏教開教以来、2,500年の時を経て、日本では、宗教そのものが怪しくなってきました。京都の宗教団体の主宰者が、少女の信者に対して暴行するという事件があり、石川県でも、宗教法人の主宰者が除霊という名目で、女性に性的な暴行をするという事件が起こりました。
 宗教が「事件」を起こしたり、世界では、宗教が「戦争」の原因になっています。
宗教本来の目的は、人々を苦しみから解放することにあります。それが、逆に苦しみの種を作っているというのが現代の宗教の実態です。宗教は、もともと「善意」で行われるものです。そのはずなのに、今、「悪意の宗教」が幅を利かせています。
 そうしたとき、宗教というものの原点に戻って、その教えや在り方を再点検することは、宗教の進む方向の軌道修正という点で大切なことであります。
 この意味で、ダライ・ラマ十四世の金沢講演は、私たちが忘れてしまった仏教本来の教えを再認識させるものとなりました。
ダライ・ラマ十四世は、講演の中で「縁起」について語りました。「縁起」とは、「すべてのものごとは、他のものとの関係が因となって起こる」という考え方で、何ものにも頼らず、何ものにも関係することなく単独で存在するものごとなどないという教えです。この教えから、「因果」という考えも生まれました。「因果」とは、「すべてのものごとには、原因があり、その結果として、ものごとが起こるのであり、その結果が新たな原因となって、さらに新たな結果が生まれる」という考え方です。ここから「因果応報」ということばが生まれ、原因の善悪によって、結果の善悪が決定することから、「善因善果」・「悪因悪果」ということばも生まれました。
 この「縁起」や「因果」の教えを、現代人は忘れてしまっています。それは、人々の生き様に現れています。たとえば、「便利」の名のもとに、使い捨て商品が開発され、ドンドン売れています。また、日本人はぜいたくになり、まだ使えそうなものでもドンドン捨てています。その結果、ゴミが増え、その処理方法や処理場の確保に悩むこととなり、ゴミの不法投棄が後を絶ちません。そのゴミを、「ボランティア」の名のもとに拾って歩く人がいるのですから、考えてみれば滑稽な現象であります。
また、人間は一人で生きているのではありません。たくさんの人々に支えられて生きています。それなのに、人間関係が煩わしいからという理由で、隣近所との付き合いを疎遠にする傾向があります。人間関係が薄くなったことで、信頼関係も薄れ、ちょっとしたことが大問題に発展したりします。「4月のおたより」で紹介した、保育園の前で立ち小便した男性が裁判にかけられた話などは、その好例です。
 「袖すりあうも他生の縁」ということばがあります。街角で、出会い頭に袖が触れ合っただけでも、その人とは、前世での関係が深かったのだから粗末にしてはいけないという意味です。私たちは、現世において何の関係もない人でも、前世において深い関係にあったかも知れないし、来世において深い関係を持つことになるかも分かりません。仏教では、関係のことを「縁」と言います。過去世・現世・未来世にわたる人間関係の「縁」を考えて生きることの大切さを教えたのが、「袖すりあうも他生の縁」ということわざです。
 『日本霊異記』という書物があります。平安時代の初め頃に書かれたこの書物は、「善因善果」「悪因悪果」の実例を100あまり集めて一冊の本にしました。この本が書かれた目的は、「因果の報いを示すにあらずは、何によりてか、悪心を改めて善道を修めむ」というもので、人々を「善道」=正しい道、つまり仏道に導くために書かれました。
 その中に、こんな話が載っています。

 武蔵の国のある男が、筑紫の国の防人となって赴任しました。母親が、その男の従者となって、いっしょに筑紫の国へ行き、息子の世話をしました。男の妻は、武蔵の国に残りました。3年が経って、男は妻を恋しく思うようになり、よこしまな考えを起こしました。
 それは、母親を殺して、喪に服するという理由で帰国し、妻といっしょに暮らすという考えです。 
男の母親は、熱心な仏教信者でした。
 ある日、男は、母親に「東の山の中に法華経を講義する大法会があるから、いっしょに行こう」と誘いました。母親は、法華経の講義を聞きたかったので、行くことを承知しました。
 途中、山中で、男は刀を抜いて母親を殺そうとしました。母親は驚き、殺さないよう説得しますが、息子は聞き入れません。
 そして、男が刀を振りかざして、斬りかかろうとした瞬間、男が立っていた地面が裂けて、男は、その中へ落ち込んでしまいました。母親は、とっさの判断で、息子の髪の毛をつかみましたが、母親の手には、息子の髪の毛だけが残って、息子は、真っ逆さまに大地の割れ目に落ち込んで、死んでしまいました。
 母親は、息子の髪の毛を持って武蔵の国に帰り、法事をして、息子の追善供養をしました。

 この話を記録した作者は、話の最後に「母の慈愛が深いがゆえに、不孝非道な息子にさえ哀れみをかけ、子のために供養を行った。しかし、不幸の報いはてきめんに表れるものだ」と感想を述べています。
 「因果」の教えは、昔は、このように説かれました。現代の私たちには、にわかには信じがたい奇妙な話ですが、それほど、現代人の「因果」とか「縁起」に対する感覚が鈍ってしまっていると言えるのではないでしょうか。
ダライ・ラマ十四世は、講演の最後に、「経済・環境・健康・人間社会は、他との相互関係によって生じるものであり、縁起は、現代社会に上手に取り入れていける考え方ではないだろうか」と述べました。
 簡単に言えば、「もっと他人のことも考えて、仲良くしようよ!」というメッセージでした。
 当たり前と言えば、当たり前すぎるほど単純なメッセージですが、それを実行できないところに現代人の心の闇を感じます。             合掌

2004・5月

先日、諷経でお葬式にお参りしたときのご導師さんと伴僧さんの控え室での会話です。伴僧さんは、ご導師さんに少し遅れて葬儀会場に到着しました。

 伴僧・すみません。ほんとうは一番先に来んならんがですが、自坊で「お講」があったもんで遅れました。すみません。
 導師・あんたんとこは、朝お講か?
 伴僧・そうです。朝お講です。
 導師・ほんなら、当番の人は早く出て来んならんぜ?
 伴僧・ええ。でも、たいがいの人は、前の晩に用意しておいたものを鍋に入れて持って来られるようですから、やたら早いということはありません。
 導師・ああ、それも良い工夫やな。
 伴僧・でも、最近の若い人は、当番に当たったとき寺へ行くのは、お寺の人の食事を作りに行くのやと思っている人がいますね。
 導師・そうか? そうかも知れんな。今では、どこのお寺でも、お講のお参りが少 なくなって、門徒の人のお参りよりもお寺の家族の方が多いということも あるもんな。
 伴僧・そうなんですよ。そういう状態だから、お講のときはお寺の人の食事を作りに行くがやという感覚の若い人が増えて来ているんですよ。
 導師・そうなんやな。いずれお講というものは無くなるんかな……。

 この会話を聞いていて、とても他人事とは思えませんでした。今、お講は、どこのお寺でも年々お参りの人が少なくなっています。そうしたとき、お講当番に出てきた若い人が、お参りの少ない状況を見て、「私は、お寺の人のために食事を作りに来とるがんでないやろか?」という疑問を抱くことがあっても不思議ではありません。こういう人が増えてくると、「お講の精神」(お講の意味・こころ)が失われてしまいます。
 そういえば、今から約530年前の蓮如上人の時代でも、「お講の精神」を忘れた人たちがいました。蓮如上人は、『お文』の中で、「そもそも毎月両度の寄合(お講)の由来は、なんのためぞというに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の、信心獲得のためなるがゆえなり。しかれば、往古よりいまにいたるまでも、毎月の寄合ということは、いずくにもこれありといえども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒飯茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり。…」と、飲み食いだけで終わり、形だけになってしまっているお講のあり方を嘆きました。飲み食いだけで終わるお講には、「信心」を求める姿が見られません。「心」を求める真摯な態度がありません。お講は、形だけのものになってしまっています。
 精神・こころが失われて形だけになってしまったものに参加することほど、辛いものはありません。法事とか葬儀などには、儀式としての次第(順序)というものがあり、その次第にのっとって儀式が進められます。その次第が、形に当たります。そもそも、形というものは、形ができる前に精神・こころというものがありました。その精神・こころを参加した皆さんに分かりやすく示すために形というものが考え出されました。ですから、どんな儀式でも、元々は、そのことを行う精神・こころというものがあったはずなのです。
 次も、ある法座の控室でのA住職とB住職の会話です。

 A住職・最近、門徒宅で勤める報恩講は、お年寄りしか参らんがになったな……。
 B住職・そうやね。昔は家族全員でお参りしたもんですがね……。
 A住職・そうそう。おら、こないだ、こんなこと言われたじゃ。
 B住職・なんやったいね。
 A住職・ある父ちゃんに、「今度、お宅に報恩講参りに行くさかいよろしく頼むわ」って言ったら、その父ちゃんが、「はは〜ん。ご院主さんは、小遣いが欲しくなったんやな」って言われてガッカリしたじゃ!

 ここにも、精神・こころが失われて形だけになってしまったお参りがありました。これでは報恩講になりません。「仏作って魂入れず」という諺があります。肝心なものが抜け落ちているという意味です。A住職がお参りした父ちゃんの家では、報恩講という形にはなっているのですが、肝心の「報恩講の精神・こころ」が欠けてしまうことになりました。
21世紀は、「こころの時代」だと言われています。「こころ」を失った人が増えてきているからです。「物」にばかり価値を見いだして生きる人が増えてきているからです。こうなると、仏教の立場から言えば、仏教で説くところの「三毒」のひとつである「貪欲」という煩悩に惑わされながら生きる人が増えてきているということになります。そして、「貪欲」が幅を利かせると、「貪欲」と「貪欲」がぶつかりあって、奪い合いの争いになります。争いになると、お互いが傷つきます。傷つけ合ったあげくの果てに残るのは、体の傷ばかりでなく、心に深い傷を残すことになります。これでは、今まで築き上げてきた良好な人間関係が崩れて行ってしまいます。人間関係というものは、物で出来上がっているものではありません。家族の関係も、物で出来上がってはいません。地域社会の人々同士の関係や会社の中の人間関係も同じことです。みんな、「こころ」で出来上がっているものなのです。「こころ」は、目に見えません。この、目には見えない「こころ」や「精神」が失われることで起こる次の事態に思いを致して見ると、大変な時代が次にやってくることが想像されます。
 それよりもなによりも、その前に私たちは死んで逝かねばなりません。死んで逝く人は、4つの苦しみに会うと言われています。ひとつは身体的苦痛、二つめは精神的苦痛、三つめは社会的苦痛、そして霊的苦痛の四つです。身体的な苦痛は、医学の発達で和らげることができるようになりましたが、あとの三つの苦痛は医学の力ではどうにもなりません。死ぬことへの不安や生きることへの未練、そして生まれてやがて死んで逝く人間存在への不可解な気持ちが、死に逝く人の心を苦しめます。
 私たちは、この苦しみを超えて安らかに死んで逝くために、日頃から「こころ」や「精神」を見つめておく必要があります。「こころ」で物を見て、「こころ」で人と接する、そして「こころ」で行うことを心がけて生きるということです。「こころ」で行えば、損得や勝ち負けは関係ありません。結果を、そのまま受け入れることが出来ます。この事が出来て分かれば、私たちは自分が死ぬとき、自分の人生に満足し、皆さんに感謝しながら死んで逝くことが出来ます。こんな死に方を、仏教では「安楽往生」と言うのです。
私たちは、殺風景になりつつある「こころ」の世界をなんとかしなければならない時代に生きているのではないでしょうか。     合掌

2003・5月

 4月は、おかげさまで3日間にわたり祠堂経会を勤めさせていただきました。期間中はたくさんの方々にお参りいただき、ローソク代やお仏供米そして祠堂をあげていただきました。また最終日には、恒例の誕生児「初参会」も勤めました。今年は、3人の子どもさんがお参りされました。ありがとうございました。
 さて、先日、28歳の若者が病気で亡くなるということがありました。お通夜や葬儀の場は、大きな悲しみに包まれました。そして、その雰囲気は、あまりにも若い死が与えた衝撃の大きさを物語っていました。
蓮如上人は、お文の中で「…されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。」と述べています。この教えは、「人生ははかなくむなしいものであり、老若どちらが先に死ぬとは決まっていない。だから、早くその事実を悟って念仏を唱えなさい。」というのがおおよその意味です。
 私たちは、お年寄りが先に死に、若い者が後に死ぬのが普通のことであり、若い者が先に死ぬのは異常なことであると考えています。そして、たまには若い者が先に死ぬという事実があることも知っています。しかし、それが自分のことだとは考えていません。こういう考え方を、仏教では「顛倒上下」と言います。さかしまな考えという意味です。
 お金や財産があれば幸福になれると考えたり、良い大学を出れば出世して楽な暮らしができると考えるのも顛倒上下です。そして、そうならなかった時に、あわてふためき混乱することになるのです。
蓮如上人の教えは、「長生き」「お金」「出世」ばかりにとらわれず、それらにこだわる顛倒上下の考えを捨てなさいというものです。そして、顛倒上下の考えから離れられたときに開けてくる心の世界が念仏の世界であると説いておられます。
28歳の若者の死は、このような教えを無言のうちに説いているように思えることでありました。 合掌!

 「初参会」にお参りされた子どもさん
  すこやかな成長をお祈りします。