法 話 2 

  このページでは、折々の法座で話したことや、文にまとめてみたものを「タイトル」・「法話の場」・「話のポイント」をつけて掲載します。自分自身の思索の足跡を残すためです。お読みいただいて、ご指導いただければ幸甚です。
  話の展開の仕方としては、社会のできごとを話題として取り上げ、そのことについて仏法はどう判断しているかを述べて、私たちが、そういう問題に当面したときにどう生きれば良いのかを考察するという展開でつづりたいと思います。

タイトル3 娑婆の時間と仏さまの時間
法話の場 一般
法話のポイント  最近、衝動的な方向に走る若者が増えています。しかし、これは若者に限ったことではありません。人間は、本質的に衝動性を持っています。このような激情に惑わされず、穏やかに生きる智慧が仏教にあることを「仏さまの時間を生きる」というテーマで話します。
 先日の新聞に、「最近の若者はよく切れる」と出ていました。「切れる」とは、頭が良くて、よく勉強できるということだと思っていたのですが、最近は、腹を立てることを「切れる」と言うようで、最近の若者は、すぐ腹を立てやすいという意味で「若者はよく切れる」と言うようになったようです。
 そういえば、そうだと皆さまにも思い当たる節があると思いますが、確かに、最近の若い人たちは、すぐ腹を立てる・切れることが多いようです。包丁がよく切れるとか、鎌がよく切れるというのなら仕事がはかどりますが、気持ちがよく切れるというのは、何とも有り難くないものであります。
 金沢での話ですが、スーパーマーケットの中で煙草を喫っていた若者に、店員が注意したところ、注意されたことに腹を立てて、店員の顔を殴りつけて逮捕されたという話があります。また、犬を散歩中に、通りがかりの人に、綱をしっかり引いて散歩させるようにしなさいと注意されて、腹を立てて、注意した人に殴りかかった若者がいました。
 これらの話は、どっちが正しいのかというと、注意した方が正しいことを言っているわけです。スーパーには、生ものが置いてあるし、それに煙草の臭いが染みこんでは良くないわけです。それから、灰をどこにでも捨てられたら衛生的にも食品にはよくないわけです。お客さまが迷惑する。だから、店員は「止めてくれ」と言います。それが気にくわないと言うわけです。また、犬の散歩中には、綱をはって散歩させる。ゆるめていると、犬が通りがかりの人に飛びつける綱の余裕があるわけですから、危ないわけです。だから、綱をはって散歩させなさいと注意したわけで、その注意が気にくわないので、注意した人に殴りかかるというのは、どう考えても理不尽です。自分が間違ったことをしているのに、注意した人をカッとなって殴りつけるという神経は理解できません。悪いことをしているのだから、素直に「すみません」と謝れば済むものを、それができないわけです。結局、注意されたそのことに腹を立てるという、内容は何でもいいんですね。それが我慢ならない。そういうことなんだと思います。
また、こんな話もあります。道を尋ねたんですが、答えてくれなかったんですね。訊かれた人は、分からなかったのか、何処あるのか考えていたのかも知れませんが、答えなかったわけです。そうしたら、尋ねた若者が、「俺が訊いたことを無視するな」と怒って、押し倒して顔を蹴りつけるという事件がありました。何様だと思っているのでしょうかね。この話は聞くだけでも、こちらの方が腹の立つ話です。「お前は何様や、そんなこと言える立場か、人に物を訊いておいて」と言って、こちらから殴りつけてやりたいくらいの若者です。おっとっと。こっちも切れていたのでは、だめですね。今、切れたら駄目だという話をしているのですから。
 ところが、最近切れるのは若者だけかと思っていたら、お年寄りも切れるんですね。長崎県での話ですが、81歳の男が自分の友達の家に火を点けたんです。その理由は何かというと、「俺の好きな女を取った」という理由なんです。81歳の男ですよ。人間というものは、幾つになっても、この道からだけは離れられないんですね。当然、警察にご用となって裁判にかかったわけです。そして、下された判決が懲役10年・執行猶予なしということでした。だから、犯人の81歳の男は、これから10年間刑務所暮らしをすることになったわけです。刑期を終えたら91歳ですよ。91歳にならないと娑婆へ出られない。もう娑婆とおさらばせんならん歳になって娑婆へ出てくる。娑婆へ出たとたん、娑婆とおさらばということになるかも知れない。81歳という歳を考えて火を点けたんですかね。もうじき死ぬ年齢になって、後生のことも考えないで、好きな女取られたから相手の家に火を点けるってね。この歳になったら、分別はちゃんとしとるはずなんですが、この81歳の男も、年甲斐もなく「切れた」ということなんでしょうね。
 だから、切れるのは若者だけとは限らない。お年寄りも切れるんです。
 昔、達磨大師という人が居たんです。あのダルマさんです。この人は、禅宗の開祖と言われているんですが、「気は長く、心は丸く、腹を立てず、人には寛大に接し、己を小さく謙虚にすべし」と言われたんだそうです。皆さん、見たことがあると思いますが、湯飲み茶碗とか色紙なんかに書いてあるんですね。「気」という漢字は細長く書く。「心」という漢字は丸く書く。「腹」という漢字は横に寝かせて書く。「人」という漢字は大きく書く。そして、「己」という字は小さく書いてある、そんなのを見たことがあると思います。そのことですね。これは、人生訓として、色々なものに書かれるのですが、その中で「腹を立てるな」ということで、「腹」という漢字は寝かして書くわけです。腹は立てずに横に寝かせておけ、立てたら損だよ、失敗するよという教えなんですね。この達磨大師は、今から1400年ぐらい前の人ですから、その当時でも、腹を立てるというか、切れる人が居ったわけですね。だから、達磨さんは、「腹をたてるな」とおっしゃっておられる。こんなふうに見てくると、腹を立てる、切れるということは、今の人も昔の人も変わらないわけです。今も昔も同じなんですね。
 しかし、今の人は、特に若い人は切れやすい。すぐ腹を立てる。そして、さっき話したような事件を起こす。なんでなんでしょうかね。去年、「なんでだろ〜 なんでだろ〜」ということばが流行りましたが、ほんとに「なんでだろ〜 なんでだろ〜」ですね。
 ひとつ言えることは、自分の気持ちを抑えられない、我慢が足りない、辛抱ができないということです。長田精明という人が居ますよね、高浜に。舘開の長田さんと関係はどうなのか知りませんが、この人が、こんな川柳を詠んだんです。「辛抱の文字も書けないこの世代」という川柳です。うまいこと詠んだものであります。今時の若い者は、辛抱できないうえに、辛抱という漢字すら書けないという意味です。だから、今時の若い者は、いっちょ前のことだけは言うけれど、我慢ができない。さらに、勉強もしない。漢字も知らない。困ったものだという意味なんですね。まったくそのとおりです。だから、辛抱出来ないから、すぐ結果を求める。すぐ結果が出ないと腹を立てるというわけです。これは時代のせいかもしれませんね。時代が悪い。今の若い人たちは、「待つ」ということを知らずに、教えられずに育って来た。欲しいと言えば、すぐ親が買ってくれる。お腹がすいたと言ったら、湯をかけるだけですぐ食べられるものがある。店には何でも売っている。金さえあれば何でもすぐ手に入る時代に育ったわけですから、待つとか我慢するとか辛抱するということは要らない。そして辛抱できなくなってしまった。その結果、切れる若者が増えてきたわけなんだと思うのです。せっかちな若者が増えて来たということなんでしょう。
だから、「焦るな」ということなんです。世の中には、焦ってもどうにもならない事がいっぱいあるんですね、多いんです。昔、中国の百姓で、苗の生長が遅いので、苗を引っ張って伸ばしたら苗が枯れてしまったという話があるのをご存じだと思いますが、これと同じで、子どもというのは、簡単に育ちません。親の思うとおりに育ってくれない。親の言うことを聞いてくれない。そういうものなんですね。生まれたばかりの赤ん坊は、泣いてばかりいる。泣き止まない。なんで泣くのか分からない。それが我慢ならんというので、生まれた4日目から、「泣くな」とか、「親の言うことを聞け」とか言って、赤ん坊を打擲する。そして、殺してしまった母親が居りましたよね。赤ん坊というのは、泣くのが仕事なんですから、それが我慢ならんと言って親が打擲するわけです。そういう親が増えてきたんです。そんならというので、泣いている赤ん坊の泣き声を聞き分けることが出来れば子育ても楽だというので、「赤ちゃんの泣き声を聞き分ける機械」を作ったんです。その機械の名前が「ホワイクライ」というのです。これは英語ですから、日本語に直せば、「赤ちゃんなぜ泣くの」という意味の名前の機械なんです。「カラス なぜ鳴くの カラスは山に かわいい7つの子があるからよ… 」という童謡がありますが、これはカラスの子が鳴いているのではなく、親が鳴いているわけですが、子育てというのは親泣かせでもあるわけです。大変なんです。少しでも、親の負担が軽くなればということで、「赤ちゃんの泣き声分別機」というものが発明されたわけです。それで、スイッチを入れて、機械を、赤ちゃんの泣いているところへ持って行って20秒くらい測るんです。そうすると、機械は、今どういう状態かということを教えてくれるという仕組みなんです。「お腹がすいている」のか「おむつを変えて欲しい」のか「眠たい」のか「だっこして欲しい」のか「具合が悪い」のか、ランプが点くんです。5種類のランプが点く仕組みになっているんです。それを見て、おっぱいをやったり、おむつを変えてやればよいという「子育てお助け機械」というものができた。今は、こういう時代なんですね。面倒くさいことは、機械に任せるという時代です。そうすると、母親は、考えなくてもよい、悩まなくてよいわけです。なんで泣くのやろと心配する必要がない。機械を見れば、答えが出ているんですから。機械を見て、子どもを見ずに子育てをするというおかしな時代になりました。ちなみに、この機械は、16800円だそうです。子育てノイローゼになっている若い母親がいたら話してみてください。
 しかし、子育てというものは、そんなものではない。始めての子なんかは、何で泣いているのか母親は分からない。若い母親は困るわけです。しかし、昔の母親は、その声をじっと聞いて、赤ちゃんの心を掴んできた。そして、一人前の母親として母親も育って行ったわけです。しかし、今の母親は、そんな具合ですから、何人子どもを産んでも、赤ちゃんの声を聞き分けられない。機械に頼ってしまっていますから、いつまで経っても、一人前の母親になれない。だから、子どもを打擲することしかできなくなるわけですね。その結果、子どもらしい子どもは育たないし、親もいつまでたっても親になれない。
 これが、今の社会の現状なんです。若い人が辛抱が足りないというのも、こんなところに原因があるように思うのです。若い人は、あまりにも急ぎすぎる。あわてても、どうにもならんことは、じっくりやればよいんですが、それができないんですね。世の中が便利になったのは有り難いことだが、その分、人間もせっかちになりすぎて、人間関係がこじれてくるというのでは、何のために便利になったのか分かりません。逆効果なんですね。便利になって、余った時間は、もっとじっくり使えばいいんです。そして、いくら便利になったからといって、じっくりやらなければうまくいかないという事もあるんですね。
 「仏さまの時間」というものがあるんです。仏さまの時間というのは、とてつもなく長いんですね。落語に「寿限無」というのがあるのをご存じだと思います。長屋の八っつあんの家に赤ちゃんが生まれた。八っつあんは、お寺の和尚さんに名前を付けてもらおうと、お寺へ行きます。そして、とにかく長生きするめでたい名前を付けてくれと頼むんです。そしたら、和尚さんが付けた名前がやたら長い。「寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末雲来末風来末 食う寝るところに住むところ やぶら柑子のぶら柑子 パイポパイポのシューリンガン シューリンガンのクーリンダイ クーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長介」という名前なんです。最近、この「寿限無 寿限無…」が子どもたちに流行っていて、先日、報恩講にお参りした家で子どもさんが「寿限無 寿限無…」とやりだすわけです。なんで知っているのかと聞いたところ、テレビでやっているというんですね。NHKの教育テレビの子ども向け番組かなんかでやっているのだそうです。この「寿限無 寿限無…」の名前の最初が「寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ」となっているんですね。「寿限無」というのは、限りない命という意味ですね。阿弥陀さまのことを無量寿如来とも言います。限りない命を持った仏様という意味ですね。そこから、仏様のように長生きをして欲しいというのが「寿限無」でしょう。そして、「五劫の擦り切れ」というのも限りない時間という意味なんです。「五劫の擦り切れ」の「五劫」とは、あの正信偈の中の「五劫思惟之摂受」の五劫のことです。それが何で「擦り切れ」なのかと言いますと、40里ないし80里ないし120里立方の石があって、その石の上に天人が3年に一度舞い降りるんです。そして飛び立ちます。その時、天の羽衣が石に擦れるんです。その擦れたときに、石がかすかにすり減る。そうやって、その石がすり減って無くなるまでの時間を一劫と言うのです。だから五劫というのは、その五倍の時間なんです。五劫というとてつもなく長い時間、法蔵菩薩が安楽国土をどんなふうにして建設するか考えられたというのが「五劫思惟之摂受」なんです。そんな事情から「五劫の擦り切れ」と言ったのです。だから、「五劫の擦り切れ」もとてつもなく長生きして欲しいという、言ってみればめでたい名前ということになります。 
この「劫」という考え方でお分かりだと思いますが、仏様の世界とか時間は、とてつもなく長い。人間の知恵では及ばない時間が、仏様の時間なんです。
 この無量寿の命に目覚めてくれよと呼びかけてくださっているのが仏様なんです。人間の世界のせっかちな時間に追いまくられておらず、仏様の無量寿の命の世界に心を向けてくれよ、そうすると生きることが楽になるよというのが仏様の教えなのです。仏様の時間で生きる生き方を取り戻してくれよ。人間の時間では生きにくいよというのが仏様の呼びかけなんです。
 そうしたら、仏様の時間とは、どんなものかと言うと、『大無量寿経』というお経の中に「去来現仏 仏仏相念」ということばが出てくるんです。仏様の世界は、過ぎ去った仏様、これから世に出られる未来の仏様、そして今の仏様同士が、それぞれのことを思っておられるというのです。話をしておられるというのです。過ぎ去った過去の仏様は、今の仏様のことを思っているし、さらに未来に出られる仏様のことも思っておられる。今の仏様も、過ぎ去った仏様のことを考えているし、未来の仏様のことも考えている。そして今の仏様のことも勿論考えている、それらの仏様たちと話をしておられる。これが仏様の世界だし、そういうふうにして仏様の時間が流れていると説かれてあります。つまり、仏様の世界は、時間を超えた心と心がつながった世界なんです。そういう世界が仏様の世界なんです。
 だから、この仏様の世界に心を向けよということは、人間の世界においても、仏様と同じように、過ぎ去った方々・ご先祖の方々のことを思い、そして、ご先祖の方々が私たちに願われている願いに耳を傾け、さらに未来に誕生する子孫たちのことを思い、そして、子孫達のことばにも耳を傾けることをすべきですよということなんです。また、現在という今を同時に生きている人たちのことも考えて、その方々の私に対する願いにも耳を傾けなくてはなりませんよというのが「去来現仏 仏仏相念」の教えなんです。そういうことを忘れてしまって、自分の事や、今しか考えていないから辛抱ができなくなって、気に入らないから殴りつける、思うようにならないから打擲するということが起こるわけなんです。赤ちゃんのことにしても、赤ちゃんは「オギャー オギャー」としか泣かない。ことばにならない。ですが、ことばにならない声に耳を傾ける、見えない声を聞いていくということが大切なんですね。そういう声を聞ける、聞き分けられるようになると、仏様の時間というものが分かってくるんです。生きるのも楽になってくるんです。
 あの阪神大震災があってからまる9年経ったわけなんですが、被災者の方たちは、簡単に立ち直れないんですね。特に肉親を亡くした人なんかは、辛い思いを引きずって生きているわけなんです。そんな人の中で、金田清子という81歳の女の方が居るんです。この方は、震災のときに旦那さんがつぶれた家の下敷きになって、そして抜け出せずに、家が燃えて、焼死したんです。そのとき、金田清子さんは、旦那さんといっしょに寝ていたんですが、駆けつけた子どもたちに助け出されて、別のところに避難していたんです。そして子どもたちは、母親を先に避難させて、家の下敷きになった父親をひっぱり出そうとするんですが、引っ張り出せないんです。柱かなんかが邪魔をして、どうしても駄目なんです。3時間ほど頑張ったんですが、駄目なんです。そのうち火の手が回って来て、危ないというので、父親が「もういいから行け」と言ったんです。子どもたちは、どうしようもないので父親を残して、その場を離れるんです。そのとき、子どもたちの後ろから、父親の大きな叫び声が聞こえたんです。「清子ーっ」という一言だったんです。そして、その一言を残して、父親は家とともに焼け死んでしまったんです。金田清子さんは、自分の旦那さんが焼け死んだことは、後になって子どもたちの話を聞いて知るわけなんですが、その話を聞いてからの清子さんは、何もやる気が無くなってしまって、テレビを見てため息ばかりついて生活するという毎日になってしまったんです。子どもたちは、そのがっかりした姿を見て、声もかけられないくらい痛々しいようすだったんです。そして、父親が、最後に「清子ーっ」と叫んで死んだということを言えなかったんです。言えば、もっとガッカリすると思っていたんですね。4年ほど経ってから、もういいかなと思った子どもたちは、父親の最後のことば、「清子ーっ」と言って死んだことを金田清子さんに知らせたんです。そしたら、その話を初めて聞かされた金田清子さんは、「そうやったんか」とひとこと言って黙ってしまったというんです。そして、言うたというのです。「あの人は、おべんちゃらひとつ言えなんだ人なったんに、そんなこと言うたか」と言って、そして、「やっと、父ちゃんの気持ちが分かった」「最後は、私のこと思うとってくれたんか。ありがとね。苦しかったやろ。」と言ったそうです。先の戦争中、兵隊たちは戦地で死ぬときは、「天皇陛下万歳」と言って死ぬように教えられて戦地へ出かけたんですが、実際、「天皇陛下万歳」と言って死んだ兵隊は少なかったということを聞いたことがあります。みんな「母ちゃん」と言って死んだそうなんですね。それと同じで、金田清子さんの旦那さんも、最後は妻の名を叫んで「清子ーっ」と言って死んだんです。平生は、妻の金田清子さんに、優しいことばをかけるということもなかった人だと金田清子さんは言うんですが、とにかく優しいことばは無かった。そして、何を考えているのか、いっしょに住んでいても分からない。そんな状態だったけれども、ほんとうは妻のことを考えていてくれたのだ。最後に自分の名を呼んでくれた。そういう気持ちが金田清子さんの心に起こってきたわけです。それからの金田清子さんは、見違えるように元気になってしまったんです。生きる元気を取り戻したんです。そして今では、初孫が結婚することになって、それを楽しみにして毎日を送っているという話があるんです。
 この金田清子さんは、震災から4年経って、ようやく仏様の時間の中に入っていくことができたんですね。旦那さんが「清子ーっ」と言って死んだことを聞かされたとき、ようやく旦那さんと心が通じたんです。今までは、この世にいっしょに生活していながら心が通じなかったんですが、「清子ーっ」という一言で、あの世とこの世という違いはあるが、心がつながったんです。子どもたちが伝えてくれた一言で、すべてのモヤモヤが吹き飛んで、旦那さんの心とつながったんです。そうしたら、元気が出てきて、生きる勇気が湧いてきた。震災後は、ただ生きてきたんだが、これからは、死んだ夫の分も生きてやろうという気にもなった。そして、いつも「私のことを見とってよ」という気持ちにもなり、夫は死んだけど、いつもいっしょにいるという、夫が生きていた時よりも、夫との一体感というものを感じるようになった。そして、人生が寂しくなくなったというんです。
 だから、金田清子さんは、今まではこの娑婆の時間の中でしか生きて来なかったんですね。「去来現仏 仏仏相念」という心の世界があることを知らなかったんです。
そして、「去来現仏 仏仏相念」の世界に心が開かれなかったんです。だから、過ぎ去った人の心が分からない。自分が生きていることにも自信が持てない。つまらない生活の日々であった。ところが、夫の最後のことばで、つながった。心が開けたんです。
 これが「仏さまの時間」に心が目覚めたということなんですね。これで金田清子さんは迷わずに生きられる。仏様の時間の中でゆっくり生きて行けるようになった。 こういう心の転回というものが、誰にも必要なことなんです。私たちは、あまりにも人間が作った時間に縛られて、きりきり舞いをしながら生きておる。それでは、ダメなんですね。仏様の時間を取り戻すこと。仏様の時間の中で生きることが大事だと思うことであります。
タイトル2 生死一如
法話の場 通夜・忌明け法要等・その他
法話のポイント  お母さんが、入浴中に亡くなりました。
 私たちは、物事を二つに分けて考えがちです。生と死の問題についても同じ事で、死を不吉なものとして考え、生きていることに価値があると考える傾向があります。人間は、必ず死なねばなりません。しかし、自分の思うようには死ねません。この不如意な死を、ありのままに受け止めて生きる態度として「一如」という教えを強調します。
 お母さんが、入浴中に亡くなられるという突然のできごとで、ご家族やご親戚の皆さまにおかれては、たいへん驚かれたことと思います。そして、その現場に立ち会われたご家族の方の心の衝撃は、殊に大きかったこととお察し申し上げます。お母さんは、最近体調を崩して通院されて居られたとのことで、お父さんや娘さんたちは、心配されたようですが、まさか亡くなるとまでは考えて居られなかったとのことです。しかし、心配が、それ以上の厳しい現実となって、ご家族やご親族の方々に示されることとなりました。衷心よりお悔やみ申し上げます。
 生前のお母さんは、お父さんの営む鮮魚の小売店を手伝って居られました。朝早くから店頭に立ち、お父さんを助けて、帰宅は夜の七時三十分という長時間労働で頑張って居られたご様子でした。そして、いつの頃からか「ぽっくり寺」へお参りされていたと聞いております。ご存じのように、俗に「ぽっくり寺」と言われているお寺があります。「ぽっくり寺」というのは通称で、正式な寺号は別にあるわけですが、そのお寺にお参りすれば、「ぽっくり死ねる」という風評が流れ、「ぽっくり寺」と言われるようになったお寺のことです。お母さんが、「ぽっくり寺」へお参りされるようになったのには理由があると思います。それは、今となっては、もはや具体的には分かりませんが、これまで色々な方々の死と出会って、死ぬことは辛くて苦しいものだし、それ以上に看取る方の世話もたいへんだという気持ちがあり、自分が死ぬときは家族に面倒をかけたくないという気持ちがあったのかも知れません。特に、女性の方には、そういう傾向が強いのかも知れません。このことから言えば、お母さんは念願叶って、ぽっくり死ねたということになります。しかし、遺った方々にとってみれば、せめて蒲団の上で死なせたかったという気持ちが強く、残念に思っておられることと思います。
 しかし、人間の死場所というものは決まっておりません。また、自分で決めたとおりに死ねるというものでもありません。比較的、蒲団の上で死ぬ割合が多いというだけのことです。
 私の知っている方で、畑仕事中に急死されたお父さんがいます。この方は、百姓一筋に生きて来られた方で、年齢は七十歳の後半にさしかかっていましたが、毎日、畑へ出て野菜の世話をしていました。そして、採れた野菜を地区内の独居老人宅へ届けていました。最近、独居老人が増えています。そのお年寄りたちは、毎年届けられる野菜を楽しみにしていました。お父さんは、お年寄りたちに喜んでもらえることを生き甲斐のようにして丹精していましたが、その年は、お年寄りたちに野菜を届けることができませんでした。お父さんにとって無念なことであったかも知れませんが、生涯の仕事とした百姓の仕事中に、しかも畑で死ねたことは本望であったかも知れません。いずれ、人は死して土に還るのですから。
 私たちには、蒲団の上以外で死ぬことは、あまり好ましいことではないと考えている傾向があります。死ということを考えると、安らかな死を望む傾向が圧倒的に強いわけですから、「安らか」イコール「蒲団の上」というイメージがあるからでしょう。しかし、私たちには、蒲団の上以外で死ぬ運命に遭う可能性があるし、またその場面に自分が立ち会う可能性だってあるのだということを覚悟しておかねばなりません。そして、その死を受け入れる覚悟も必要であります。
 仏教で、「生死一如」という考え方があります。「如」とは、「あるがまま。そのまま。」という意味です。私たちは、「生」と「死」は別々と考えます。確かに、現象面から見ると、その違いは歴然としています。生死一如とは、生のみに執着して死を遠ざけて死から逃げるのではなく、生の中に死を受け入れていく態度のことを言います。現象としては、生まれてそして死んで行きますが、生に執着するのでもなく、死を嫌うのでもなく、片一方にのみこだわらないニュートラルな心の状態のことを生死一如と言います。私たちは、何事も二つに分けて考えてしまいます。勝ったとか負けたとか、善いとか悪いとか、楽しいとか苦しいとかなどと言いますが、仏教の立場から言えば、勝負・善悪・苦楽などということは本来ありません。二つに分けて考えるところから、苦悩が始まります。分けなければ、苦悩は生まれません。その分けない状態のことを「一如」と言うのです。「あるがまま」「そのまま」受け止めていく心の態度のことです。
 この「一如」ということを教えるたとえ話が『涅槃経』というお経の中にあります。吉祥天と黒闇天という姉妹の天人の話です。ある家に、きれいな衣装の美しい女性が訪ねてきました。そして「私は吉祥天という者で幸福を授けにきました。」と言います。喜んだ主人は、彼女をわけも聞かず家の中へ招き入れます。その後に、みすぼらしい姿の醜女が立っています。主人は、「お前は誰か。」と尋ねたところ、「私は黒闇天という者で、私が行く所には必ず災いが起こります。」と答えました。これを聞いた主人は、「お前に用はない。とっとと消え失せろ。」とどなりました。すると、黒闇天は大声で笑いました。そして、「あなたはバカです。先に入った吉祥天は私の姉です。私たちは姉妹で、いつも一緒に行動しています。私を追い出せば、姉も出て行くことになります。」と言いました。そして、そのとおり吉祥天は、黒闇天と肩を並べて出て行ってしまいました。
 この話でお分かりと思いますが、人生というものは、自分の都合の良いようには運びません。そして、自分の思うとおりになるものでもありません。そういう不如意の人生を生き抜くための教えが「一如」であります。どちらにも片寄らず、そのままを受け止めることができる心こそ一如に開かれた心であります。そうなると、勝負一如・善悪一如・苦楽一如でありまして、そして生死一如ということにもなるわけであります。
 ですから、人間は生まれたら必ず死ぬわけですから、死ぬことに良いも悪いもありません。善し悪しを言うのは、人間の勝手な都合から出たものであります。その都合から離れられれば、「死」をあるがままに一如の中に受け止めることができます。お母さんの突然の死は、私たちに、「一如」に目覚めて生きる確かな人生を歩めとのお諭しと受け止めさせていただいたことであります。

タイトル1 新たな歩み
法話の場 通夜・忌明け法要等・その他
法話のポイント  一家の大黒柱が交通事故で急死しました。
 家族・親族にとって、あまりにもむごい現実であります。遺された人たちに何を説いても無力に思えますが、厳しい現実を直視して、それを受け入れなければ、新たな生活を始める契機をつかめないことを、経典などを引用しながら説き進めます。
 そして、やがて、家族たちが新しい歩みを始めるための力になれる法話とします。
 「死は、後ろからやってくる。」と言います。死には、覚悟の上の死もありますが、ある日突然肉親が亡くなるという運命に出会うこともあります。突然の死に接したとき、心に受ける衝撃が、後ろから不意を突かれたような感じであることから、このような表現が生まれたものと思われます。そうすると、あらかじめ予測した死は「前から…。」ということになるのでしょう。また、覚悟が不十分な時の死は「横から…。」ということになるのかも知れません。そして、まったく覚悟のなかった死に出会った場合に、「後ろから…。」という表現になるわけです。ということは、死というものは、私たちの前後左右どこからでも忍び寄り、襲って来るということです。
 当家のご主人が、交通事故に巻き込まれて即死されました。ご主人は、奥さんと子どもさん三人を支える一家の大黒柱でした。仕事を終えて、会社からの帰宅途中に起こった不慮のできごとでした。突然の訃報を受けた家族を襲った衝撃には、計り知れないものがあったことと思います。「後ろから」はもちろん、上から叩きつけられ、下からも突き上げられるような衝撃で、全身が打ちのめされるような思いをされたに違いありません。まさに地獄の苦しみが家族を襲いました。
 地獄という所は、一般的には、自分がなした行為の報いを受けて落ちる所だと説かれますが、「落ちる」ではなく、「突き落とされる」場合もあります。他の力によって、無理矢理、地獄の苦しみの中へ放り込まれるということがあります。その場合でも、地獄の鬼が、獄卒を送りつけて、その人をさんざんな苦しみに合わせます。『往生要集』という書物を読みますと、地獄のことが詳しく説かれてあります。地獄は、八種類あると説かれますが、最初の地獄を「等活地獄」と言います。等活地獄では、獄卒たちが鉄の杖や棒で地獄に落ちた罪人の全身をうち砕きます。あるいは鋭利な刀で、魚を料理するかのように切り刻んでしまいます。しかし、地獄に一陣の涼風が吹くと、バラバラになった体が元通りになってよみがえります。それを見つけた獄卒たちは、ふたたび罪人を捕まえて叩きのめし、切り刻みます。地獄では、このことが限りなく繰り返されるのです。
 一家の中心を失った家族の苦しみは、『往生要集』が説く地獄の苦しみに勝るとも劣らないものであったに違いありません。ご家族は、まさに地獄に突き落とされるような運命と出会ってしまいました。
私たちは、このような運命に出会った場合、どうしたらよいのでしょうか。そして、何ができるのでしょうか。おそらく、ほとんどの人は、何をしたらよいか分からなくなるし、何もできなくなってしまうことでしょう。
 しかし、この悲しみと苦しみを乗り越えなければ、私たちは前へ進めません。それができなければ、ご主人が亡くなった時点で時間が止まってしまい、すべてが停止してしまいます。そうなると、永久に地獄の苦しみの中で生き続けねばならないことになります。どうしたら、このむごい苦悩の現実を抜け出せるのでしょうか。
 『大無量寿経』というお経の中に、「人在世間愛欲之中、独生独死独去独来、当行至趣苦楽之地。身自当之、無有代者。」と説かれてあります。考えてみれば、私たちは一人で生まれてきます。たまに双子で生まれる場合もありますが、確率としては低く、ほとんどが一人で生まれて来ます。そしてやがて、一人で死んで行きます。それが「独生独死」ということです。誰も、一緒に付いてきてくれません。人生は孤独です。ひとりぼっちです。そして、人生において受ける苦悩は、誰にも代わってもらえません。さらに、その苦悩を他と比べてみても、何の意味もありません。苦しみは、元のままです。『大無量寿経』は、だからこの現実を抜け出して「無量寿国」に至る道を求めないと説きます。そして、求めて至り着くことができれば、「横截五悪趣、悪趣自然閉。昇道無窮極。」であると説きます。「悪趣」とは、苦しみを受ける境涯のことです。「無量寿国」に至れば、悪趣の苦しみを越えることができます。その越え方を、「横截」と表現しています。「横截」とは、横ざまに断ち切るという意味です。縦に切るのではありません。木材や竹などを切ったり割ったりする場合、縦方向は楽ですが、横方向は労力がかかります。これと同じで、「横截」とは、切りにくい横方向から無理矢理断ち切ってしまうということです。さらに「横截」とは、意外な方向から断ち切るという意味でもありましょう。そういう普通でない切り方が「横截」なのです。また、「横截」は、違った世界に出るということです。たとえば、川を挟んだこちら側の道を歩いていたものが、向こう岸へ跳び越えて向こう岸の道に出るということです。つまり、苦悩を越えて別の世界に出ることを「横截」と言うのです。
 キリスト教の信者の話ですが、あるとき難病の子を持つ母親が神父さんに尋ねました。「我が子の病気は治るでしょうか。」と。神父さんは答えました。「病気のことは、どうしようもない。しかし、祈りなさい。祈って祈って祈り尽くしなさい。そして、病気のことなどどうでもよいという心境に至るまで祈り続けなさい。」とアドバイスしたという話を聞いたことがあります。
 この子どもさんと母親は、その後どうなったかは知りませんが、このエピソードは、「横截」ということを考えるヒントを与えてくれているような気がします。病気が治るか治らないか、病気になるかならないかということよりも、もっと大切なことがあるのではないだろうか、もっと大切なことに心を向けねばならないのではないだろうかということを教えているように思います。先にお話しした『大無量寿経』の「独生独死」の教えも同じことです。世の中の苦楽・損得・勝負よりも大切なのは、世の中は「独生独死」であるという現実を直視することであるし、そうすれば「無量寿国」への道を求めることが最も大切なことであると分かるのだと説くのです。
 今、お父さんの居ないご家族に必要なのは、向こう岸へ跳び越える勇気を蓄えるということです。お父さんが居なくても頑張って行けるという力を蓄えることです。そして、思い切って向こう岸に跳び越えられたとき、ご家族の新しい歩みが始まるのではないでしょうか。そのために、現実を直視し、現実から目をそらさず、「無量寿国」への道を求め続けていただきたいものであります。