当寺は、文化5年(1808)火災により全焼しました。
 その時に、仏や仏具、過去帳すべてを失い、以前の記録が全部失われてしまいました。
 その52年後、明治24年に、第21世釈了観が、門徒宅に残っている法名を調べたり、聞き取り調査をしながら新過去帳を復活させました。 したがって、正確でない部分を含んでいる可能性が十二分にありますが、新過去帳には真宗極應寺由諸として以下のように記されています。
極 應 寺 の 縁 起










 極應寺先祖代々の墓


真 宗 極 應 寺 由 諸
 そもそも、文明4年4月10日、真言宗より蓮如上人直弟子と成り、法名廣圓と賜り、自画本尊一幅・和讃3首付属に預かり、その後5代目廣界と申す僧、天正4年石山に登り、顕如法主にご機嫌を伺い、6字名号一幅たまわり、蓮如上人より頂戴の本尊を開基仏と称し改宗より本年まで408年間尊敬たてまつり、当寺は文化5年辰5月10日これ焼失につき、前過去帳等も焼失し、今度改正帳簿により亨保元年より当年まで164年間の諸門徒より法名を収集に及び旧過去帳を改む            明治24年4月 元藤了観

 また、「加越能社寺由来」という史料には、極應寺の由来について、次のように記されています。

        由来お尋ねに付き申し上げそうろう

1.当寺開闢は、天正4年、法円建立にして、当住持4代当歳に至るまで110年にまかり成り申しそうろう。
1.当寺の居屋敷の儀は地子地にまかり在り申し上げそうろう。
1.当寺は先規より火打谷村にまかり在り申しそうろう。
  右のほか、由来ならびに縁起寄進状等御座なくそうろう。以上。

  貞亨(1685)2年8月20日

  能洲羽咋郡火打谷村 浄土真宗東方   極應寺  法誓

  この2つの史料を比べると、開闢の年は一致していますが、初代住職の名がちがっています。
 過去帳は、文化5年(1808)の焼失により失われ、明治24年(1891)に、聞き取り調査などを通して復刻したものですから、復刻過去帳記載の「廣圓」は、「法円」の聞きちがいだろうと思われます。
 そして、「加越能社寺由来」極應寺の由来を報告したことになっている「法誓」という人物は、改定された過去帳の歴代住職の中には、名前がありません。
 「加越能社寺由来」の記録は、焼失以前の記録ですから、こちらの方が正しいのでしょうが、正確な歴史を失うということは、やはり、ある種の寂しさを感じさせます。
 このことで、親鸞聖人が歎異抄の中で「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。」と言われたことばを思い出しました。
 仏法には、法の伝統というものがあり、その精神が代々受け継がれて今日に至っています。
 そこにあぐらをかいてのんびりしてしまう怠惰には注意しなければなりませんが伝統というものは何かしらの安心感を与えてくれます。
 逆に、伝統をわずらわしく思うこともあるでしょうが、伝統を失った者にとっては、失われた歴史がどんなものであったのか気になります。