閑話10

初めての真宗本廟奉仕団  平成16年9月25日・26日

 これまで、いろいろな立場で、真宗本廟を何度か訪れました。最初は、中学一年生のときでした。そのときは、得度式受式という立場でした。それ以降、教師修練、住職修習、単なる観光、はたまたお東紛争の動員などなどです。
 奉仕団の一員として上山したのは、今回が初めてです。
 立場が変われば、当人の視点も変わります。奉仕団は、まずタスキを掛けます。奉仕団を引率した私も、略衣の上にタスキを掛けました。これで、住職とか・奉仕団の引率者などというプライドが消えました。肩書きも何もない一人の人間という立場に立てたということです。
 その立場から本廟・教団・信仰・人間・社会を見ると、これまで見えなかったものが見えてきました。それは、新鮮でした。
 新たな視点と感動を持てたことが、今回の上山の大収穫となりました。


閑話9

ツバメ」巣立ちまぢか  平成16年8月

 私が極應寺に生まれて初めて、ツバメが営巣しました。
 ツバメは、4月ごろから飛来し、二羽のつがいが仲良く巣の材料を運んでいたのですが、途中で一羽だけになってしまい、その一羽も来なくなってしまいました。
 ところが、6月下旬からふたたび二羽で飛来し、せっせと巣作りに励み始めました。
 そして、4羽のひなが生まれ、ようやく巣立ちの日を迎えようとしています。
 ツバメは庫裏玄関の蛍光灯の笠の上に巣を作っています。玄関土間に糞を落とすので汚いのですが、何といってもカラスとちがって「益鳥」ですから、我が家のVIPとして温かく見守ることにしています。お盆前には、巣立つことでしょう。

閑話8

茨城県の「親戚」と「学兄」を訪ねて

平成16年5月2日から5日

 ゴールデンウイークを利用して、いまだかつて一度も行ったことのない茨城県を妻と2人で訪ねました。石川県から片道600Kmは、高速道路を使って7時間半の旅でした。茨城県には、江戸時代の後期、極應寺からこの地に移り住んだ呑山法師という先祖の子孫が住んでいます。一度訪ねたいと思っていた念願が叶いました。子孫たちは、美野里町に住んでいます。5月2日の夜は、16家族が集まって私たちを歓迎してくれました。私の顔を初めてみた親戚は、開口一番、「似てね〜」でした。私も、そう思いましたが、今から4代も前の先祖の話だから隔世遺伝もないだろうと思い、この件については考えないことにしました。
 「所変われば品変わる」と言いますが、まさにその通りで、生活のスタイルや考え方など、北陸とは違った一面を見ることができました。その中でも、先祖の墓参りをしたとき、墓のバカでかいのと、土葬の木柱が残っているのには驚きました。土葬の習慣は、北陸では私が生まれたときには、すでにありませんでした。そして、墓地の向こうに見える住宅が、お城のような建て方になっているのにも驚きました。二階部が高いということです。この建て方が、あちこちで見られましたから、この地方では普通の建て方のようですが、見慣れない者にとっては違和感を感じました。住み心地は、どんなものなのでしょうか。
 3日は、親鸞聖人ゆかりの旧跡を案内してもらい、4日はつくば市に住む大学時代の朋友と35年ぶりの再会を果たしました。彼は「常福寺」という親鸞聖人24輩18番旧跡寺の住職として頑張っていました。本堂や鐘楼などの新築事業を成功させ、寺院経営に積極的に取り組んでいます。私などには及ばない格の違いを感じました。夜は、遅くまで飲んで語り合い旧交を温めたことであります。
 それにしても、親戚からも朋友からも、ともに気配りの行き届いた物心両面にわたるもてなしをしていただき、たいへん恐縮しました。そして、今回の茨城県訪問で、皆さんの温かい心をもらうとともに、励ましと元気までももらって石川県へ帰ってきたしだいであります。合掌

閑話7

極應寺2回目の「帰敬式」執行
平成16年4月4日

 当寺は、例年、「祠堂経会」を4月上旬に勤修しています。そして、4月8日はお釈迦さまの誕生日であることに因んで、誕生児の「初参会」を「祠堂経会」期間中に行っています。今年は、「初参会」に加えて、「帰敬式」を執行しました。「帰敬式」は、3人の女性の方が受けられました。一般寺院で「帰敬式」を行えるようになってから、「帰敬式」にこだわって来ました。「帰敬式」を受けることを嫌う人がまだまだたくさんいるからです。「帰敬式」のことを「お髪剃り」とも言いますが、「お髪剃り」を死と結びつけて考える人が多いからです。
 「帰敬式」を何人の人に受けてもらうか、そこに住職としての技量が問われているように思います。
 今回、「帰敬式」を受けられた方々の「法名」は、私が付けさせていただきました。そして、「法名」に願われている願いに思いを致して、仏教徒として、その願いを実現して、充実した人生を歩んでいただきたいのと思いを込めて「お髪剃り」をさせていただきました。



閑話6

歓喜光院殿御影御崇敬勤修 
羽咋郡志賀町安津見 専念寺  平成15年11月4日から9日まで

 期間中、多くの善男善女の参詣があり、
多い日で500人がお参りされました。弁当
持参の参詣者は、1日4回の法話・お念
仏の教えに熱心に耳を傾け、法悦に浸り
ました。
 しかし、参詣者の多くは高齢の方々で、
若い人はほとんど見かけませんでした。
仏法の相続という点で、私たち僧侶に投
げかけられた問題だと受け止めさせてい
ただきました。

 歓喜光院殿とは東本願寺第19代門主「乗如上人」のことです。
 天明8年1月30日午前5時、京の街で火事が発生しました。折からの強風で火は燃え広がり、京の1/3を焼き尽くすという大火災となりました。この火災で東本願寺は、類焼を免れることはできませんでした。本廟・阿弥陀堂とも全焼してしまいました。
 乗如上人は、何としても本願寺を再建したいという願いを持たれ、翌年から再建に向けた工事が始まりましたが、上人は本願寺の完成を見ることなく3年後に亡くなりました。その遺志を受け継いだのが第20代門主「達如上人」です。達如上人は、それから7年間、全国の門徒を督励して本願寺再建を成し遂げ、乗如上人の遺志に応えました。
 この再建のお手伝いに、全国から、ご門徒の方々が上京しました。ご門徒たちは、東本願寺の周りに小屋を建てて、そこで寝起きしながら再建に向けて粉骨砕身の労を惜しみませんでした。
 そして10年の歳月をかけた大工事も完成し、ご門徒たちがそれぞれの国元へ帰ることになったとき、達如上人は、不惜身命の労を尽くしてくれたご門徒たちの働きに感激され、前住職乗如上人の御影を鹿島郡・羽咋郡のご門徒にも下付されました。今から、200年あまり前のことです。
 その絵像を敬承するため、羽鹿2郡の寺院持ち回りで毎年盛大に御崇敬が営まれています。今年は、羽咋郡志賀町の専念寺で勤まりました。


閑話5

境内のケヤキ伐採

平成15年秋


 11月1日、当寺境内のケヤキの木を伐採しました。庫裏のすぐそばに生えていて、大きくなったため、横に伸びた枝が庫裏の屋根にかかってしまい、建物に良くないということと、ケヤキの葉の始末にも難儀するということで思い切って切ることにしました。
 このケヤキは、樹齢120年の大木で、幹の最も太い部分で直径1メートル、枝までの高さ8メートル、枝を除いた幹の重さが4.3トンありました。
 当日は、レッカー車が富山県から来て、木に登った人が伐った枝を吊り上げて下に下ろすという手順から作業を始め、約2時間で作業を終わりました。
 それにしても、色々な仕事に携わっている人・職人がいるものです。ケヤキを伐る場合、まず枝を落とす作業から始まります。木に登って作業をする人を「高師(たかし)」と言うのだそうですが、実に見事な仕事ぶりでした。高師は、宮崎さん(50歳)という方がしました。
    @ 最初に、宮崎さんをレッカーで吊り上げて、ケヤキの枝の股になった部分まで運びます。
    A 宮崎さんは、そこから切り落とす枝を登ってレッカーのワイヤーを枝に巻き付けます。
    B その後宮崎さんは、股の部分にもどり、枝の根元をチェーンソーで伐ります。
    C 枝を切り落とす瞬間を、下でレッカー車を操縦する川原さんが見計らっていて、伐った瞬間に枝を吊り上げます。
    D レッカーの川原さんは、吊り上げた枝を、建物を傷めないようにして下まで運び下ろします。
    E 下に下ろされた枝は、下で待っていた子方(こかた)が手際よく片づけます。
という具合に段取りよく作業が進みました。
 それにしても、木に登るということは危険な作業です。宮崎さんは、安全ベルトを2本持って上に登り、木に巻き付けて作業をします。また、靴には木の上で滑らず、楽に上り下りできる金具を取り付けています。そして、自在に木の上で作業を進めて行きました。下から眺めていると、樹上の猿のようにも見えましたし、また、「雲の上で仕事をしている人」という印象も与えました。そして、レッカーの川原さんとは、無線機で常に連絡をとりながら仕事をするわけですが、2人の呼吸が合わないと、つまり阿吽の呼吸がないと出来ない仕事だと感心しました。まさしく、プロの仕事とは、こんなものかと思える見事な仕事ぶりでした。
 当日の朝、作業が始まる前に、当寺の前坊守(84歳・当寺に生まれて前住職を婿に迎えた)が、「こどもの頃から今日までこのケヤキを見て育ってきた。」と行って泣かれたのにはまいりました。そして、戦時中は境内に何本ものケヤキが生えていて、船の材料として「献木」として供出したという話や、当在所にもう一軒あるお寺の本堂を建てるときにもケヤキを提供したという話をしてくれました。今回伐ったケヤキは、当時は細くて使い物にならなかったので今日まで残ったということだそうです。
 木を伐るということは、歴史を消してしまうことでもあるのだということも分かりました。  合掌



閑話4

善光寺まいり

平成15年夏

 8月30日、女房と2人で善光寺を訪ねました。目的は、善光寺繁盛のわけを知りたいと思ったからです。
 やはり、善光寺は繁盛していました。多くの善男善女が訪れ、まさに「門前市をなす」勢いでした。それは、善光寺の懐の深さに理由があるような気がしました。善光寺は、どの宗派にもこだわらず参詣人を受け入れています。この方針は、現代人には受け入れやすいように思います。かつては、家の宗教であったものが、個人の宗教に移行しつつある現在、善光寺は、家の宗教にこだわらない人々にとっては安心してお参りできる雰囲気があります。そのせいでしょうか、下の写真に写っている参詣の人々をご覧下さい。若い人が、圧倒的多数を占めています。「若い人の寺離れ」は、ここではまったく心配ありません。善光寺には、若い宗教的土壌があります。これらの人々が、物見遊山ではなく、ちょっとでも宗教の心に触れて帰っていただければと強く思ったことであります。
   合掌

 境内には、親鸞聖人の立派な銅像が建
っていました。越後から常陸に出られる途
中、善光寺に寄られた故事にちなんだもの
です。
 また、旅の楽しみは、なんといってもその
土地の名物を味わうことにあります。
 蕎麦は、やはり美味でした。石川県では
味わえない味でした。
 そして、土産に「そばまんじゅう」を買って
帰るという定番の旅となりました。

閑話3


荘川ざくら紀行

 7月23日、岐阜県へ出張する機会がありました。最近、東海北陸自動車道の整備が進み、白川から荘川間は一般道を走らねばなりませんが、短時間で北陸から東海地方へ出ることができるようになりました。そこで、車で東海北陸自動車道を通って岐阜へ出ることにしました。
 東海北陸自動車道の、一般道区間の途中の御母衣ダム湖畔に、あの「荘川桜」があります。この巨大な2本の桜は、ダムの底に沈んでしまった白川郷の中野地区の光輪寺と照蓮寺の境内にあったものを移植したものです。樹齢400年と言われるこの2本の巨樹は、5月の連休時期になってようやく満開になります。その時には、たくさんの人々が訪れ、出店も出てたいへんな賑わいとなりますが、花も済んだ今は、訪れる人もなく、静かなたたずまいを見せていました。
 このダム湖畔道路を、かつて国鉄バス「金名線」が走っていました。名古屋と金沢間266qを走る長距離バス路線でした。そのバスの車掌で、佐藤良二という人が、荘川桜の大規模な移植作業を目撃し、移植後にはダム湖畔に活着して、再びみごとな花を咲かせた桜樹に心を突き動かされました。そして、自分が勤務する金名線の路線沿いに桜を植え、太平洋と日本海を桜で結ぼうと思い立ち、私財をなげうって名古屋から金沢間の道路端に桜を植え始めました。太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぶという壮大な計画でした。
 そして、佐藤さんが生涯に植えた桜は、1,500本にも及びました。
 佐藤良二さんは、47歳で亡くなりました。すぐれた念仏者でもあったということです。
 今、白川から荘川間を走ると、佐藤良二さんが植えた桜を散見できます。佐藤さんの桜の苗は、今は若木となってスクスクと育ち、道行く人々を見守っています。
 また、この名古屋から金沢まで続くこの道路で、毎年、マラソン大会が行われています。ランナーたちは、どんな思いで266qを駆け抜けていくのでしょうか。
 1本の道には、さまざまな人々が、さまざまな思いを抱いて往来します。その道端には、さまざまな人間の歴史があります。そういう人間のさまざまな思いと人間の歴史を静かに見守るかのように、「荘川桜」は、梅雨空を重く支えた雲の下で、ひっそりとたたずんでいるのでありました。 合掌

光輪寺の桜 手前が照蓮寺の桜、その奥が光輪寺の桜
です。2本は、道端に並んで立っています。
照蓮寺の桜


御母衣ダム湖。この湖の底に、かつて360戸
1,300人の暮らしがありました。
荘川桜と御母衣ダム湖。私たちは、このダム
の水を利用して作る電気の恩恵を受けて暮ら
しています。
佐藤良二さんの桜。桜には、添え木が付け
られています。冬の豪雪に耐えられるため
に添えられているものと思われますが、誰
がするのでしょうか。
たぶん佐藤良二さんの意志を受け継いだ
名もない1人の男が、黙々と励んでいるに
違いありません。


閑話2

住職の余技

 住職が、地域の子どもたちに小倉百人一首かるたを教えるボランティアを始めて、かれこれ16年になります。ある保護者の方から、「お前さんは高等学校の先生で、しかも国語の先生だから、かるたぐらいを知っているだろうから、うちの子にかるたを教えてくれないか?」と依頼されたのがきっかけです。
 かるたの経験がなかった住職は、高校の国語教師でもあるというプライドから、「嫌」とも言えず、二つ返事でO.K。経験者を訪ねて教え方を習い、自らも子どもたちとかるたを取りながら今日まで来ました。
 人にものを教えるということは、どんな場合でも難しいもので、逆に、子どもたちから教えられることの方がたくさんありました。もったいなくも有り難いことであります。合掌!
 そして、現在、10人の子どもたちと週2回の練習を続けながら、各地の大会に出場したりなど活動を続けています。
 その子どもたちが、去る1月13日、「第14回志賀町新春かるた大会」に出場しました。

試合前の暗記時間 小学校1年生も頑張りました 入賞者の記念撮影

                                   

閑話1

住職の同窓会レポート


 去る8月19日(平成13年)、岐阜の長良川温泉で、大学時代の寮の同期生による同窓会が4年ぶりに開かれました。今回が、卒業後3回目の同窓会であり、幹事は岐阜県出身者が担当するということで、鵜飼いを見物しながら語り合おうという趣向になりました。参加は、寮監でいらした片岡先生を含めて11名で、北は北海道の網走からの参加もありました。
 同窓会は、5時30分からの宴会に始まり、7時からは、場所を長良川に浮かぶ川船に移し、鵜飼いを見ながら、大学時代の思い出や、宗門の状況、そして社会の問題など延々と語り合い、夜中の12時を回ったところで、次回は、3年後に北海道で行うことを決めてお開きとなりました。
 久しぶりに再会した同窓生たちは、大学卒業以来、30年、全国各地で、営々と励み、それぞれの地歩を固め、そして自分の位置を築き上げているようで、やはり一人一人からは、困難を乗り越えてきた者の持つ、それなりの風格が漂っていました。しかし、50歳を過ぎると、体力の衰えには、いかんともしがたいものがあるとはいうものの、みんな意気軒昂で、もうひと働きもふた働きもしてやろうという意気込みが感じられ、参加した私も、大いに刺激され、元気を回復させていただいたことであります。


 3年後の同窓会は、平成16年に開くことを決めましたが、3年後の生存を自ら危ぶむ者もおり、一期一会ということをお互いに実感し合い、思いを長良川温泉に残しながら、寮友たちは全国に散らばって行ったことであります。
 幹事のお二人には、大変お世話になりました。        合掌